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1.11 ウイルスという生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「人類の未来がどうなるのか」については、2、3か月前に記事を書き終わったが、これと直接の関係はないものの、生き物の本質を捉えるに当たって、一つ気になることが出てきたので、12月25日以来、少しずつ書き進め、行きつ戻りつして今日になって一応の結論に達したので、ここに書き留めておくことにしよう。

 「ウイルスという生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する」のではなかろうかと思えるようになった。
 なお、「絡合」とは、国語辞典によれば「互いにからむこと。もつれ合うこと。」
 ウイルスという極小の生物は、電子顕微鏡で見れば、個々バラバラな存在である。新型コロナウイルスとて、くしゃみ1発10万個がまき散らされ、たった1個で浮遊することもあり、それが近接した人にうつって増殖することもあり得るのだから。人間と同様に、個々バラバラに生きていけて、独自行動を取ることができる、そう思わせられる。
 しかし、今般、詳しく調べられている新型コロナウイルスの変異を見ていると、なんか変である。たしかにコロナウイルスは、DNA型(2本の紐がくっついて1本になっている)ではなく、RNA型(1本の紐だけ)であるゆえ、変異しやすい。どんどん変異しているようであり、当初の武漢型やそのすぐ後の欧州型は姿を消し、欧州では今や高感染性の英国型になりつつある様相を示している。
 これはこれでいい。なんせ変異しやすいRNA型であるゆえ。しかし、なぜ武漢型が消えてしまったり、英国型が幅を利かすようになったりしたのか。素朴な疑問が湧く。
 ウイルスが個々バラバラに変異するのであれば(そう考えられている)、今頃は日本型があったり、そればかりではなく、東京型や大阪型、いやいや東京型も千代田型や新宿型、さらには、ウイルスの大きさからすると、これでは広すぎるから、霞が関型や日比谷型ができて、わりと狭い地域ごとにそれぞれの変異株で占められるように変化したっていい。
 新型コロナウイルスが拡散しだして、もう1年も経とうとするのだから、世界中が変異株だらけで、世界には何万種類もの変異株がうごめいていてもいい。
 それが、どうだ。武漢型とか英国型とかといった特定の型が中国とか欧州とかいった、ウイルスの立場から見るに、非常に広大な範囲が同じ型で一時占められ、やがて1つの変異株が世界を制覇し、いくばくもせずまた新たな他の変異株が取って代わるであろうというのはどういうことか。
 増殖力の大小でもってそういう事態になる、とは考えられない。もしそうだとすると、際限なく増殖力の強い変異株がのさばっていくことになるのだが、現実は全く違う。
 あるいは、ダーウィン進化論の論理でもって、ウイルス間における相対的に強い変異株がそれまでの弱い変異株を一気に淘汰したとも考えられない。同一種のウイルス間での相互殺戮なんて聞いたことがない。そもそも、ダーウィン進化論の同一種間における「生存競争・弱肉強食・適者生存・自然淘汰」の原理なるものは根本的に間違っているのだし。そんなのは、産業革命以降の人間社会の経済活動に適用される論理に過ぎないのである。生物界においては、これは日本人的発想であるが、同一種間では基本的に正反対の「相互扶助・弱者救済・共存共栄・敗者復活」の原理で成り立っており、これが同一種の進化と繁栄を支えているのである。
 まれに生ずるところの同一種間での相互殺戮が行われるケースは、その種の異常大発生のときであり、端的な例を挙げるとすると、古代文明発生以降から今日までのヒトが異常大発生し続けている状態にあるときに限られるのである。ウイルスとて生物であり、相互扶助でもって繁栄を図りたいに決まっている。小生はそう思う。
 それにしても、ウイルス変異株の大発生、これを進化と言ってもいいだろうが、実に不思議な現象である。
 たしかに、遺伝子配列を総洗いすれば、ウイルスごとに1つや2つは塩基に違いがあろうが、これはヒトとて同様で同じ顔のヒトが2人といないのと同じである。
 でも、型と分類されるほどに違いがある変異株に一時地球表面上の大半が覆い尽くされるというのは、ウイルス遺伝子の特定部分のかなりの数の塩基配列が同じように異なったものに変異したのであろうから、どうやって、ウイルス皆がそのような姿に変わり得たのか、全くもって解せないのである。
 定説となっている「ウイルスの変異株は突然変異によって起こる」という考えは間違っているのではなかろうか。突然変異はショウジョウバエの実験で有名である。ショウジョウバエに放射線を浴びせてランダムに遺伝子の一部に変異を起こさせるのだが、それによって発生したショウジョウバエは全部奇形であって、発生した個体はまともに生存できず、自然界に放置すればあっという間に死に絶える。
 それと同様に、ウイルスがヒトの体内で活性酸素などでもってウイルスの遺伝子の一部にランダムに変異が起きたとしても、それは奇形ではなかろうか。もっとも奇形であっても、ショウジョウバエとは違って器官の奇形ではないから、生存する上において支障はさほどのことではないかもしれないが。また、奇跡的に生存に有利な突然変異が誰かのヒトの体内でウイルス1個に起きるかもしれない。それがアダムとなって数を増やしていく。これは考えられないことはない。
 でも、そうなると、先に言ったようにウイルスは世界中に何万種もの変異株が同時に存在していいことになってしまうが、そうした事実はないから、これはおかしい。
 ここは、ダーウィンの進化論とは別の考え方を持ち出してこなければならない。その一つが今西錦司による「主体性の進化論」であり、「1個体の変異からではなく、その種全体の一様な変異により種は進化する」という考え方である。 
 ウイルス進化の状況を客観的に眺めてみるに、例えば武漢で、例えば英国で、ウイルスみんな揃って同じ変異をしたとしか言えないのである。そして、その変異株がやがて世界全体に広まっていくことになる。
 今西錦司が言う「その種全体の一様な変異により種は進化する」、ウイルスの変異株もこうしてできると考えるべきであろう。
 その変異は、どうやって起こるのだろうか。
 まず考えられるのが、ヒトの体内における爆発的な増殖過程である。ところが、ヒトの体内は全人類全く共通している。つまり、ウイルスにとっての自然環境は全く経時変化しないのであり、ヒトの体内という安定した自然環境が幾万年も続くなかで、それもウイルスにとって居心地がいい自然環境のなかで、どうやって進化が起こり得るのか、ということになってしまい、説明が付かない。
 となると、ウイルス感染した大勢のヒトから吐き出されて、空気中に浮遊している段階で変異すると考えるしかない。その自然環境はウイルスにとって過酷であり、ほとんど増殖できず、順次死に絶えていくしかない劣悪環境だ。
 生物の進化というものは、たいてい急激な劣悪環境にさらされたときに、その種全体の一様な変異によって起きるものであり、武漢の1月の空気という同一の劣悪環境なり、その約1年後の英国の12月の空気という武漢とは違う同一の劣悪環境の下で、その種全体の一様な変異が起きたと考えていいだろう。
 そうしたことから、先に書いたような東京型や大阪型はできるかもしれないが、千代田型や新宿型はできないし、ましてや霞が関型や日比谷型はあり得ない。
 ここまでのことは、まだ仮説の域を出ない(でも、小生には、これぞ法則であると思われる)が、今西錦司の「主体性の進化論」に基づくものであるも、でも、これではまだ説明できないことがある。
 武漢型なり英国型は、地球表面から見れば限られた狭い範囲の同一劣悪環境で一様な変異を生じさせるだけである。しかしながら、武漢型なり英国型が他の地域へあっという間に進出して、従前の型を急速に駆逐していく(ように見える)のはどうしてだろう。
 何かまだ知られていない仕組みがあって、それに基づいて従前の型が新たにできた型に置き換わる、というしかない。そうした仕組みがウイルス界に働いていて、あっという間に新たな変異株で地球表面が覆われるということになるのではないか。
 そこで、新たに仮説を立てるしかない。仮説の上に仮説を立てては、もはや論とは言えず、単なる物語となってしまうが、「主体性の進化論」は法則であると捉える小生ゆえ、ここはお許し願いたい。
 新たな仮説とは「絡合」である。「生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する」というものである。
 その1例が、イワシなどの小魚の群。幾万匹もの小魚がまとまりのいい集団を形成し、さも1匹の巨大魚の姿で暮らしている。単細胞生物では、細胞性粘菌がその例になるが、数多くの粘菌が集合はするも融合せず、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して多細胞生物のような行動をする。こうした例は、非常に濃密に集合した形態を取って、個々の生物が相互関連性をいかんなく発揮させて生きている、つまり、絡合(「互いにからむこと。もつれ合うこと。」)した存在である。
 これは、あらゆる生物が大なり小なり持ち合わせているのではなかろうか。なんせ前に述べたとおり、生物界においては同一種間では基本的に「相互扶助・弱者救済・共存共栄・敗者復活」で成り立っており、同一種の繁栄を支えているのであるからして。
 そうしたことから、生物は、同一種間においては、集団の存在が個の存在を優越し、集団なくして個は存在せずの状態となり、個は集団の大勢の形質に自らの形質を近似させ、同化させようとする性向をもっているのではなかろうか。
 さすれば、ある地域(武漢なり英国)で「その種全体の一様な変異により種は進化する」という法則にしたがって、その地域で大半が特定の型に進化した変異株で満たされた状態になった後には、その新変異株が周辺地域に拡散するにつれて、旧来の変異株も自らすすんで新変異株に生まれ変わっていくという事態が生じて、世界中があっという間に新変異株に生まれ変わる、というふうになるのではないか。
 そして、その新変異株は、絡合でもって地球表面全体を覆いつくし、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになるのではなかろうか。
 じゃあ、個々のウイルス間でどのような情報通信が行われ、どうやって変異作用を働かせるかという難問にぶち当たるのであるが、全くもってこれは不明である。
 ただし、何らかのエネルギー作用が働いていることは確かであろう。植物にはヒトの感情を感知する能力を十分に備えているということは、植物の葉の電導率が近くにいるヒトの感情に左右されて即座に急激な上昇・低下することによって確かめられているし、植物と植物の間、さらには植物と動物の間でさえ、たえず情報通信が行われている証拠も数多く見つかっている。これは、何らかのエネルギー波(とでもいうべき未知のもの)による情報通信がまずあり、それをキャッチしての変異作用の発動という流れが生ずる、というしかないのではなかろうか。
 そうしたエネルギー波がウイルスにあってもよかろう。あらゆる生物は生命の危機に瀕するような急激な環境変化があったときには“死にとうない”と必死にもがくものであり、そのもがきのなかから何らかのエネルギー波が強く発せられ、それが個々の同種の生き物に相互関連性を持って共有され、つまり絡合し、歩調を取って生き残りを模索し、その種全体の一様な変異へと導かれるのではなかろうか。
 加えて、そのエネルギー波は近似する他種にも全地球上に働きかける性質を持つ。ウイルス干渉という現象である。インフルエンザウイルスで知られていることだが、A型(それも特定の変異株)が世界的に流行すると、他の変異株やB型は遠慮して流行しないのである。そのまた逆も当然にしてあり、例年そうしたことが繰り返される。そして、今般の新型コロナウイルスは、あまり近種ではないものの、一本鎖のRNAタイプという類似性を持つインフルエンザウイルスを見事に遠慮させてしまった。
 このウイルス干渉という現象をみたとき、ウイルスは絡合でもって地球表面全体を覆いつくし、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになるとしか言い得ないのではなかろうか。
 人間社会も、個々のヒトが単独では決して存在し得ず、全地球上のヒトが絡合でもってあたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになると考えたいものである。現代人は個々人が強力な情報通信手段を幾つも持っているのであり、ヒト同士は強く影響し合って生きている。その相互関連性の糸は全地球上のヒトとヒトの間にびっしりと張り巡らされているのであり、絡合の最たるものだ。
 自分が宇宙人になったつもりで地球の外から地球表面を眺めてみたとき、人類は一つの生き物として集団を形成して存在している、なんとなくそのように見えてもくるから不思議なものである。半面、絡合という、あまりにも多くの(無数の)相互関連性の糸でがんじがらめにされてしまって、身動きが取れなくなり、個々人は孤独を欲することにもなるのだが、これは、生き物は絡合してしか存在し得ないことの裏返し現象ではなかろうか。
 生き物とは何か、生き物は全体としてどういう仕組みで生きているのか、あまりにも奥深すぎて真理にたどり着くことは到底不可能ではあるも、これを探訪するのは実に興味深く面白いものがある。
 いやーあ、たわいもないことで随分と長文になってしまった。読者の皆様には申し訳ない。だれも真面目に取り上げてくれない内容であり、無視されるであろうが、多少とも自分の頭の中が整理できた。それで十分だ。

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
3品思い出す。他に1品。3/4で75点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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10.31 資本主義経済に代わるシステムは生まれるだろうか [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「人類の未来がどうなるのか」について、とりとめないことを思うままに書いてきた。よって、けっこう思い違いがあったりして、とんでもない間違いがいくつもあるであろうが、ご容赦願いたい。
 今までに記事にしたのは、「人類は宇宙人になるんだろうか」4本、「ヒトの形質変化は将来どのように進むだろうか」5本、「科学技術の大発展がもたらすもの」6本、「生活様式はどう変わるか」5本そして「宗教はどう変化するか」1本である。
 今回で最後になるかもしれないが、「資本主義経済に代わるシステムは生まれるだろうか」について、思いのままを記す。

 宗教の定義ほどではないが「資本主義経済」の定義もけっこう様々なものとなる。別の角度から捉えた「自由主義経済」と混同されもする。「共産主義経済」や「計画経済」との対比でもって説明しようとされたりする。
 こうしたややこしい区分けなり説明よりも、「物やサービスの提供を銭でもって自由に行う」経済システムを資本主義経済と言ったほうが分かりやすかろう。
 よって、産業革命で資本主義経済ができたわけでもなく、極論すれば貨幣が使われるようになってからは資本主義経済となったと言ってしまっていい。つまり資本主義経済イコール貨幣経済であると。
 人間というものは煩悩の塊であり、貨幣経済が発達するに比例して金銭欲が高まってくる。そのド欲が経済を発展させると言っても過言ではなかろう。そして、今や拝金主義全盛の世の中となった。
 こうなると、銭は便利な交換手段という通貨観念とはかけ離れてしまい、銭は麻薬と化し、人間の心を狂わせてしまうに至る。銭が全てであり、銭の亡者となる。そして、ただ銭のために猛烈に働くこととなる。
 戦後の資本主義経済の大発展はこれによるところが大であり、いや、これが全てと言っても過言ではなかろう。戦後の西ドイツと東ドイツの経済格差の拡大、ソ連の崩壊は、ここにあり、といったところだ。中国とて、長く経済発展はほとんどせず、近年になって資本主義経済システムを導入したことによって急激な成長を見るようになったのだが、これも銭という麻薬を人民に飲ませたからである。
 今後、世界中に銭という麻薬が広がっていき、麻薬中毒患者が増えるほどに経済発展していくのだから、発展途上国とて、餌の撒き方が上手であれば急成長するであろう。
 銭が麻薬であるわけがない、と皆さんは考えるだろうが、つい最近まで銭に無縁だった人々が世界各地にいた。いい例がエスキモーである。カナダだったか米国だったか忘れたが、彼らの定住政策を進め、生活支援のために定期的に生活保護費も渡した。そうしたところ、一気に全部使ってしまい、やがて酒を覚え、アル中が続出したのである。アフリカの採集狩猟民の定住政策でも同様なことが起きた。彼らは銭を手にすると一切働こうとせず、生活が大きく乱れ、体を害するのであり、平穏だった社会は一気に崩壊するのである。
 麻薬(本物の麻薬ヘロインなど)は心身ともに壊してしまう恐ろしい薬物だと言われる。銭という麻薬はどうだろう。習慣性という面では麻薬と差がない。心を狂わせるという点でも麻薬と差はない。身体面では麻薬は格別にどこかの臓器にダメージを与えるものではなさそうで(通常、臓器に悪影響すると言われているが、それはかさ増やしの不純物によるようだ)問題はないと思われるのに対し、銭は猛烈に働かされることとなるから過労死もあれば慢性胃炎にもなろうし、仕事がうまくいかなければ鬱病にもなるなど確実に寿命を縮める。
 客観的に見ると、銭のほうが本物の麻薬より質が悪いのである。

 人間というものは煩悩の塊である、と先に言ったが、どうしてそうなったのか。人間も動物である。その動物は何も目的を持たずに、つまり無目的に生きている。(チンパンジーのオスともなるとリーダーの座を得ようとしてあれこれ知恵を働かせる御仁がでてくるから、どれだけかは目的性があるが、これは例外だ。)
 それに対して、文明社会の人間は幼少の頃から目的を持たされて育ち、その目的に向かわざるを得ないのである。それができなかったら、その人間は人生の落伍者となり、周りから冷たい視線を投げかけられ、どどのつまり精神異常者とされてしまう。
 その精神異常者は動物の世界では正常なのであり、目的を持って生きる者は動物の世界では異常な存在であり、動物の世界ではこうした者が精神異常者となるのである。
 「目的を持つ」ことの是非、その価値というものは、人間世界と動物世界では、その物差しは見事に逆転する。先に例を挙げたエスキモーや採集狩猟民は「目的を持たない」希少な存在であろう。
 文明社会においては、一昔前は、男は立身出世、女は玉の輿に乗る、これを目的にして幼少の頃から厳しく激しく休みなく教育された。つまり、大人になったら銭がジャバジャバ使える身分になるよう、日夜勉強させられたのであり、子どものその生活はまさに奴隷の様相を呈す。奴隷は奴隷でも、銭の奴隷である。今日に至っては、女も立身出世の道を走らせられるから、より哀れな存在に落とし込まれてしまった。

 これが現実だから、資本主義経済は否が応でも発展するに決まっている。人間が作り上げた資本主義経済であるが、いまや資本主義経済はそれ自体が、ものすごい生命力を持った生き物「魔物」と化してしまっている。この魔物が撒く餌である「銭」という麻薬を飲まされて、喜んで魔物の奴隷となってしまっているのが人間である。まだ麻薬を知らない未開地の人間にも麻薬を飲ませるようになってしまったのだから、質が悪い。 
 単なる銭の奴隷だけであるのなら、まだそこから脱する手立てはなんとかあろうが、魔物の奴隷とされてしまった今日、その魔物を倒さなければ銭の奴隷からも解放されない。
 銭を廃止するという革命的なことを、カンボジアのポルポト政権が実験を試みたが、単なる思い付きでやったから大失敗に終わった。

 高度文明社会において、魔物が撒いた餌である「銭」という麻薬を毎日飲みながら、その魔物を倒そうなんてことは、はなから論理矛盾しており、絶対にできっこない。
 どこかの国が何か妙案を思いついて資本主義経済から脱したとすると、その国の経済成長は絶対に望めないであろう。どんどん取り残されていき、経済格差が大きく開き、国力が弱体化する。すると、魔物というものは、国境をも溶かしてしまうのだから、やがて、その魔物が逆襲に転じ、魔物を排除した国に一気に侵入し、あっという間に資本主義経済に戻してしまうに違いない。
 そうさせないためには、完全に鎖国するしかない。だが、いまどき完全な鎖国なんて、どの国もできっこない。北朝鮮ですら、それをしたら直ぐにでも破滅するのは必至なんだから。
 人類は資本主義経済という魔物にますます奴隷化されていって、遠い将来か近い将来か分からないが、麻薬がド強く効きすぎるようになって心身ともにもたなくなり、この地球上から消滅する運命にあるのではなかろうか。
 いかん、いかん、これではあまりに悲観的過ぎる。ここは、将来の人類の英知に期待し、ものの見事に世界中の魔物を打倒してくれることを願おう。

 本日はここまで。
 そして「人類の未来がどうなるのか」も、これでもって、ひと区切りつけます。

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
3日前を思い出す。0点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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10.24 宗教はどう変化するか [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「人類の未来がどうなるのか」について、とりとめないことを思うままに書いてきた。よって、けっこう思い違いがあったりして、とんでもない間違いがいくつもあるであろうが、ご容赦願いたい。
 今までに記事にしたのは、「人類は宇宙人になるんだろうか」4本、「ヒトの形質変化は将来どのように進むだろうか」5本、「科学技術の大発展がもたらすもの」6本、「生活様式はどう変わるか」5本である。まあ、よくもこんなに書いたものだと、自分でもあきれる。お付き合いいただしている読者の方々には誠に申し訳ない。
 これで終るかと思いきや、まだある。今回は「宗教はどう変化するか」である。これについては、その昔、論文を1本書こうかと思ったテーマであるが、宗教学の書物は難しすぎて小生の手には負えず、途中で棒を折ってしまった。そんなことから、ごく簡単に書くこととするが、中身が中身だけに、どうしても長くなる。その点、ご了承願いたい。

 この世の中、人の弱みに付け込む、代表的な商売が3つある。これは欧米で言われているもので、日本では前2つが一般的であるも、だんだん3つになってこよう。それは、医者と坊主と弁護士だ。人の病気、人の死、人同士のトラブル、こうした弱みに付け込んで儲けているのである。
 こうしたことから日本では彼らを皮肉って「医者の不養生・坊主の不信心」と言われるが、西欧では「弁護士が良い死に方をすることは稀だし、医者が健康に生きることも稀だ」と言われているそうな。
 この中で一番たちが悪いのは坊主であろう。西欧では「坊主の不信心」とは言わないが、いずれにしても、人の死だけではなく、人の心の弱さに付け込むのだから、全ての人がターゲットとにされてしまう、恐ろしい存在だ。

 人間だれしも、何か困った問題が生じて、とことん追いつめられるとなると、自力ではなんともならなくなってしまい、超越者にすがるしかない。超越者に救いを求める道を選ぶしかないのである。
 こうした場合、日本では通常「神様、仏様」である。それをもじって野球界では、その昔西鉄ライオンズの大エース稲尾和久の快投に対して「神様、仏様、稲尾様」という言葉ができたし、最近ではその第2弾として「神様、仏様、田中様」と相成った。「田中様」とは、田中将大投手のことで、楽天の監督だった野村克也氏が「 マー君、神の子、不思議な子。神様、仏様、田中様」と言ったのが有名になった。
 日本文化では、こうして今生きている人間も超越者的存在にされてしまうこともあるし、そうした方でとっくの昔に死んだ偉いお方も神様と同列になり、神社をこしらえて祀られる。逆に、本来の神様も全知全能ではなく、一部の特技しか発揮し得ない神様ばかりで、神は一人ではなくて八百万の神となる。海の神、山の神、水の神、火の神から始まって、イワシの頭(もっぱら皮肉やからかいの例にされるが、当初はちゃんと魔よけとしての御利益があった)まで神となるのである。

 宗教とはなんぞや、その定義は定まったものはない。ある教団を捉えて、外から見ると宗教団体と考えられるが、教団内部からは宗教ではないと主張するものもある。儒教だって、そのものは思想であるが、宗教に分類されることもある。一番惑わされるのは仏教である。その本質は自らの力で悟りの境地に達する方法論を示しているにすぎず、それは学問の一種であり、あえて言えば哲学であろう。儒教だって仏教だって、それを極めようとする者は、ごく一部のエリート層であって、庶民とは別世界の話であり、無関係となる。
 仏教には様々な宗派があるが、浄土宗や浄土真宗は、つとめて大衆的であり、「南無阿弥陀仏」と7かな文字(短縮してナムアミダブの6文字、あるいはナマンダブ5文字、さらにはナマンダの4文字)の呪文を繰り返し唱えれば救われるとなるから、仏教とはいったいなんぞや、そして宗教とはいったいなんぞや、となってしまう。
 ここのところは、小難しいことを言う学者や坊主は横においといて、一般信者つまり庶民の受け止め方で宗教を再定義したほうがいい。なぜならば、信者となるのは庶民が大多数であり、単純明快でなければ意味をなさない。

 人は何かにすがりたい、何かに救いを求めたい、そしてまた、何かに御利益を求めたい。その程度は大小があろうが、毎日その何かに少しはアクセスするだろう。
 その何かは何かと言えば、日本ではあまたの神仏であり、世界の多くの地域では唯一神である。それらに対して、ただひたすら祈るのである。ただし、ゴリゴリの共産主義国家においては宗教は禁じられているから、神に祈ることは許されないが、こっそりと自分が信ずるものに祈りをささげているに違いない。
 こうしてみると、宗教という何だか高尚な小難しいものについて、あれこれ言うより、単なる「信仰」が宗教であると言い切ってしまったほうが、スッキリする。
 日本人は、折々に、困り切ったらお百度参りを、あまたの神仏を自由選択して、その都度それに祈りを捧げれば、それでよいのである。これでもって、神仏にすがれるのであり、救いが求められるのであり、場合によってはご利益が授かろうというものだ。これで心が落ち着く。そう、人は心の安寧が求められれば対象は何でもいいのである。
 ここまで言い切ってしまうと、いかにも低俗すぎる感がする。でも、現代人の信仰はそんなところだ。小生はそれでいいと思う。

 少々付け加えるとすれば、その昔の日本人はもうちょっと高尚であった。
 大自然に対して畏れを抱いていたのである。人間の力の及ばぬ大自然の振る舞いに対して、決して抗う(あらがう)ことなく真摯に受け入れる態度を取った。例えば、山の神。大雨が降っても一気に鉄砲水が来るではなく、長期間雨が降らなくても川にはいつも水が流れてきて、農作物を育ててくれる。貯水ダムがなくても、どこからともなく水が流れてきて、水が常時手に入るのである。これに感謝せずにはいられないじゃないか。山の麓に社を建て、山の神にたびたび感謝する。まれに大雨で山崩れが起き、田畑が土砂で埋まることがある。でも、これはやむを得ない。山の神も懸命に山の斜面を支えてくださっただろうが、山の神の力が及ばないことも当然ある。山の神のその懸命な御尽力に感謝の言葉を捧げ、お祈りしよう。こうした態度を取ったのではなかろうか。
 もう少し付け加えれば、山の木を使いたいからと、やたらめったら伐採すると、ちょっとした雨でも山が崩れる。木を切りすぎたために、山の神がお怒りになったと人々は考える。そこで、木を切ったら、当然に苗木を植林するという行動を人々は取った。
 また、森の木々にも神が宿ると人々は考え、大木を伐採するときには、その木に感謝の言葉を捧げ、切らせてもらうという態度を取り、こうしたことからも植林はせねばならないことになる。
 さて、この植林であるが、明治初期に、苗木を植える絵を欧米人が見て、なんでこんなことを日本人がするのか理解できなかったという。彼らには大自然というものは収奪の対象であって、山を守るなどという観念は全く持っていなかったのである。山の神も森の木々の神も全然存在しない、唯一神しかいない彼の宗教では、当時はそうした考えしか湧かなかったのであろう。
 現代の日本においても、山の神や森の木々の神もいなくなってしまった感がする。森の木を切っても植林する手間がないからとほったらかしにするし、山崩れが起きれば放置していた行政の責任だとわめく。そこで、行政は山が抜けないよう砂防ダムなどを作ればいいじゃないかと土木工事に忙しい。山には林道や作業道が作られ、そればかりかスーパー林道だとの名目で観光道路を作ったりして山を荒らしまわる。明治初期に苗木を植える絵を描いた人が、タイムマシーンでやってきて、その有様を見たら腰を抜かすであろう。山の神も森の木々の神も殺されてしまった、と。

 悲しいかな、こうして日本においても、実質上の一神教化が進みつつある。あまたの新興宗教がそうだ。うちの神様以外には信じちゃいけない、うちの仏さましか信じちゃいけない、いや神や仏じゃなくてこの経典しか信じちゃいけない、などなど唯一これのみを信じなさいという排他的なもの。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とまるで一緒だ。
 要するに、すがり、救いを求め、そして御利益を授かる、そうした対象を1本に絞り込み、極めて単純明快な姿に仕立てている。信者にとって、これほど有り難いことはない。加えて儀式は単純そのもの。すぐ覚わる。有り難や、有り難や、これで救われた、だ。
 しかし、後が怖い。高額なお布施を“自主的に”払わねばならない。場合によっては全財産を寄付するよう誘導される。さらには共同生活へと追いやられ、タダ働きさせられる。
 いい例がオウム真理教だが、新興宗教は往々にしてそうしたもんだ。キリスト教だって同類である。その初期は共同生活をしていた、ユダヤ教の新派であるからして新興宗教に違いはないのである。麻原彰晃がもうちょっと上手に立ち回っていたら、今頃イエス様のようになっていたやも知れぬ。

 さて、将来「宗教はどう変化するか」であるが、ポイントとなるのは信仰であるから、「信仰はどう変化するか」ということになるが、過去を少々振り返ってみよう。
 一番最初に唯一神信仰となったユダヤ人のパレスチナの地でも、その昔は八百万の神を信仰していたようだが、山の神も森の木々の神も早々に殺されてしまい、だんだん神の数が減って、救済神ただ一つになり、一神教が誕生した。周辺地域も同様な傾向を示す。
 その後、2千数百年以上経つが、神殺しは進み、次第に一神教が広がりを見せてきている。けっして多神教化する逆方向の動きはない。不可逆的に一神教化が進む。これは必然である。なんせ単純明快で、かつ、他の神は信じちゃいかん、と強制されるからだ。
 先に言ったように日本でも、これは着実に進む。すでに知識人の多くにあっては、自らは無神論者と主張するも実質上は一神教徒になっている。それは、ユダヤ教を嫌ったユダヤ人のアインシュタインと同じ立場だ。アインシュタインは「唯一の神という超自然的ではないところの、大自然や宇宙あるいはそれらの全ての仕組みを支配する法則性、つまり真理と同義語の神」、つまり汎神論の神の信仰を彼は持っていたのである。
 このことについては、鈴木秀夫(地理学・気象学・宗教学:東京大学名誉教授:故人)が1976年の著した「超越者と風土」のなかで次のように書かれている。
 日本の無神論者の多くは、歴史の流れを必然と認め、世界に法則が充満していると考え、それによってほとんど一神教の世界に生きているのである。…さらに注目されるのは、多くの人が、手紙の末尾で、「御健康をお祈り」し、結婚式の祝詞を「新家庭の幸福と発展をお祈りして」終ることで、もし、祈りをささげる一神または多神を持たないとすれば、その祈りは呪術にほかならず、呪術とは、言葉の持つ力を神とするか、自分を神にすることで、無神論の世界ではない。
(引用ここまで)
 かように日本人も一神教化しているのであり、それに加えて、キリスト教など、既存の明確な唯一神を信ずる者が日本には極めて少ないので、呪術がまかり通り、自分を神とする教祖がいくらでも湧いて出るのであり、これは、また、それにブレーキを掛ける明確な唯一神が日本には存在し得ないからでもあろう。

 もう一つ、外国から日本人は不信心と思わせる宗教文化がある。日本人はめったに寺院、神社に出かけない。なぜ、そうなのかについて、鈴木秀夫の同著から引用しよう。
 ソーファーは、キリスト教とは集まる信仰形態を持つもので、日本における仏教は、集まらない在家仏教であったという。そして日本にキリスト教が接した時に、キリスト教においておこったことが、集まりを中心としない無教会主義の出現であり…。(ソーファー「宗教地理学」)
 人煙まれな砂漠[小生の注:ユダヤ教はじめ一神教が発生した地域は砂漠的気候の地域であった]にあっては、人は集まることが喜びであり、人口稠密な谷底平野に住む日本人にとっては、人から離れるところに安らぎがあるのだろう。在家祭壇、在家祈祷が可能であったのも、僧侶が巡回し得るほど家々の距離が短かったからである。
 日本のキリスト教会は、在籍信者が日曜日の礼拝に集まらないことを憂えているが、これは、この伝統にもとづくものと考えられる。
 集まりを中心とせず、したがって集まりを維持するに必要な教会制度を否定し、無教会主義を主張した内村鑑三は、その意味において、彼がそうであろうと欲したごとく、極めて日本的キリスト教理解であったといえる。
(引用ここまで)

 日本人の既存宗教離れは急速に進んでいる。小生は、寺総代や神社総代を何度もやってきたが、1年に幾度もない宗教行事の参拝者は世代交代が進まず、じりじりと年々減ってきているし、神社にいたっては宗教行事の一般参拝者はずっとゼロだ。お寺も神社も、その維持管理にけっこう金が要るが、お布施なり寄付なり、労働奉仕などの門徒や氏子の負担は大きく、これがいつまで持つか、先は暗い。
 坊主は不信心、といっても先に言ったように呪術の世界にいるか、汎神論の世界にいるのだろうが、決してその宗派を信心する心境にはありそうになく、単なる稼業として紙切れの“福沢諭吉”を唯一神として崇めているだけであろう。宮司も同類である。
 この先、残り得る社寺は経営基盤が安定している(境内地以外に土地を所有し、賃貸収入がある)ところだけとなろう。坊主は宗教事業ではなく不動産事業で食っていく形となる。なんで、社寺がこんなにも土地を持っているのか。その昔、あくどい坊主や宮司がいたのではなかろうか。田畑宅地を寄進させたとしか思えないのである。小生が既存宗教を嫌う大きな原因として、これがある。今どきの新興宗教とおんなじだから。
 人の「こころ」の弱みに付け込んで脅し、信者から財産をまきあげる。ああいやだ、いやだ。まあ、人間というものは、煩悩の塊なんだから、これが正常なのだろうが。
 
 さーて、そこでどうする、特に若い方はこれから。「宗教はどう変化するか」は、若い方の出方次第となる。1995年の地下鉄サリン事件からもう25年経っているが、新興宗教と言えばオウム真理教という強烈なイメージがつきまとい、数多く新興宗教が生まれ出ても、警戒されてさほどの信者は集め得ないであろう。
 悩み多き若者は多い。どうするか。
 ひとつ考えられるのは、「見方、生き方を変える思想」ではなかろうか。もうお亡くなりになったが小林正観さんが一番有名であろう。この類の人はあまたいる。小生が一番びっくりこいたのは五日市剛さん(もう56歳になっておられるが)である。
 こうした方々はたいてい神がかっているが、“神ってる”は2016年に広島カープの鈴木誠也外野手を評しての言葉でもあり、ここで感ずる神と人間との距離感はさほどなく、抵抗感はさほどなかろう。
 しかし、とことん追いつめられたら、自分の心の持ちようだけでは(つまり自力では)解決しないであろう。となれば2つ目は呪術だ。まあ、これも自力の範疇には入ろうが。
 なお、汎神論という一神教の信者にあっては決して救われない。こんなものを信じているのは、自分の生活に余裕があって、救いなど求めなくていい状態にこころがあるからにすぎない。たとえば、知識人が何か大きなへまをやって社会的信用を失って失職したら、食っていけなくなり、そうなったら何かにすがるしかなくなる。彼が信じていた汎神論の神は冷たく彼を突き放すばかりであり、自殺するしかなかろう。

 よくよく考えてみるに、釈迦も「見方、生き方を変える思想」を説いたのだし、(よく知らないが、釈迦は、何ともならなくなったら手を合わせて何でもいいから祈れとでも言ったのではなかろうか。その時点では仏様はなかったのだから。)、つまり、仏教もその出発点に立ち返ってみれば、今の日本とおんなじだろう。
 庶民的立場に立ってものを言うと、こういうことになる。
 庶民が、こころに少しは余裕があれば生き方の思想に触れて立ち直ればいいのだし、とことん追いつめられてどうしようもなくなったら単純明快な何かにひたすらすがるしか術はないのである。
 その点、江戸時代前期に全国を行脚した円空さんは立派なお坊さんだ。病気で死にそうになっている人、飢餓で死にそうになっている人、借金で首が回らなくなっている人、などなど、もうどうしようもない状態に置かれている人々に、それぞれに適した仏像を、そうした人々の前で彫り上げて与えたという。たぶんそのとき、何か癒しの言葉も投げかけたであろう。その仏像の数はなんと12万体というからすごい。30年以上の行脚だから毎日10体彫った計算になる。というか、全国各地で毎日毎日10体は彫っていたという話から、12万体という数になるのであろうが。
 つとめて庶民的であった生臭坊主の親鸞は、どうしようもなくなったら単に南無阿弥陀仏と唱えりゃええ、と言っただけであり、とてもじゃないが、円空さんの足元にも及ばぬケチな存在だ。小生にはそう思われてしかたない。もっとも親鸞が大衆仏教を作り上げたことには小生も評価を惜しまないが、その後がいかん。親鸞は生臭坊主であったから、それまでの僧侶のしきたりを破って妻帯者となり、子を作り、彼が立ち上げた浄土真宗という教団のトップの座を世襲にしてしまった。これじゃあ宗派が大きく腐敗するに決まっておるではないか。
 で、結論は?となるが、小生はここでギブアップ。まあ、葬式仏教と言われて久しいが、最近は坊主を呼ばない葬式が流行り出したから、これは大変望ましいことだと評価しておこう。小生が死んだときも、その方式に決めている。

 本日はここまで。

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
単品につき脳トレ休み

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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10.13 生活様式はどう変わるか(その5) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 人類の未来がどうなるのか、その新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して第1回は「庭付き持ち家はいつまで続く」、第2回は「労働形態はテレワークに?」、第3回は「AI革命で仕事はがらりと変わる」、第4回は「女性の生活はどう変わるか」について書いた。今日はその第5回。

男女共同参画って正しい?
 近年になって「男女共同参画社会」(男性も女性も、意欲に応じて、あらゆる分野で活躍できる社会)を作ろうという動きがぐんぐん加速されてきた。あらゆる職業に、今まで男しかやっていなかった職業に女性を登用するという。逆に女性の仕事であった部門にも男が従事する。一切の垣根をぶち壊し、男女差別なく採用し、職業選択を自由にし、どんな仕事にも就けるようにする社会が理想であると。
 これって、本当にいいことだろうか、小生は大いに疑問を持っている。男には男しかできない仕事がある。その最たるものは軍隊であり、女性に戦争参画させるとは何事ぞ、である。自衛隊に事務職として女性を採用するのはまだいいが、兵士として採用するのは間違っている。男性脳には殺し合いを是とする原始的領域を持っているが、女性脳にはそうした領域がないのであるからして。
 それとは反対に、保育園での保育の仕事は、女性オンリーで「保母さん」が行っていたものを、男もできるようにして、今は「保育士」となり、男の保育士も数多くいるようになった。これもおかしい。男性脳には、自分が種を蒔いてできた子どもには手を出さないが、そうではない子ども(赤の他人)には手を出し、殺してしまおうとする衝動、これも男性脳の原始的領域に存在するのであるが、男はこれを大なり小なり持っているのであり、赤ちゃんや幼児はそれを無意識的に感じ取っていると考えられる。これは、意識の世界の外にあるフェロモンの作用(大脳皮質という意識の領域ではなく、無意識の分野をつかさどる視床下部を刺激し、感知する)から説明ができる。よって、男は保育士には絶対になってはいけないのであり、幼児は保母さんに保育させねばいけないのである。もっとも年長組ぐらいの年齢になれば、そうした問題は出てこないであろうが。
 看護師も同様である。女性は傷病人に対して分け隔てなく、理屈抜きに看護に当たる。ところが男はそうでない。特に野戦病院となると、男の衛生兵は敵兵の傷病人は殺してやろうという衝動が生ずるのである。この点、女性の看護婦は敵兵であってもそのような衝動は生じない。よって、平時にあっても看護は女性にたいそう適した仕事であり、従前のように看護婦でなければいけないのである。
 スポーツの世界でも同様なことが言える。レスリング・ボクシングなどの格闘技の本質は殺し合いであり、頑強な男であれば望むところだ。しかし、女性は本質的にこれを望むものではないから、決して女性にさせてはならない。それに近いラクビーやサッカーも戦闘軍団同士の闘いであり、同様に女性にさせてはならないのである。その昔は、こうした競技は女性にはさせなかったのであり、女性はそれを見るのも控えたし、そして興味を持たなかった。これが正しい。
 男性脳と女性脳とでは丸で違う行動を取るのであり、まるで違う行為を是とするのであり、これは種を越えた、オス・メスの違いから発するものであるからして、そこのところをよく承知して対処せねばならぬ重要な問題である。
 男性脳と女性脳、もっと普遍的な言葉を使えば、オス脳とメス脳ということになるが、ヒトという種のオス・メスは互いに理解しようと思っても、それは脳の違いから不可能であるのに対し、種を越えたところの、ヒトのオスとゴリラのオス、ヒトのオスとチンパンジーのオスは、その脳のオス性という類似性から互いに十分理解できる行動を取るのであり、考えていることも同じなのである。オス同士は種を越えて付き合える存在だ。メス同士もきっとそうであろう。
 オス・メスの付き合いについては類人猿のほうが賢い。チンパンジーもゴリラも、彼らのオス・メス間での相互理解は不可能なことを知っており、最小限の社会的接触しかしない。ほとんどの社会的接触はオス同士、メス同士の間で行われるだけである。
 たしかにオス・メスは互いに引き合い、相互愛が生まれる。これは意識の世界の外にある原始的な脳(視床下部)の作用であるから、理屈抜きだ。ここには、大脳皮質の思考や判断を司る領域「前頭前野」の出番は全くない。なぜだか分からないが一緒にいたい、ただそれだけ。
 であるからして、オス・メス間の相互理解(前頭前野での判断)は不可能であり、「オスはこういんもんだ、メスはこういうもんだ」と、わけが分からなくても、そのまま丸々受け入れるしかないのである。女性にはこれがわりとできるようであるが、男には不可能である。これは男性脳というものはやたらとが理屈をこねるからだ。
 随分とおかしなことを言うと思われるかもしれないが、フェロモンの働きとオス・メスの脳の構造の違いから、これは確かなことだ。もっとも、厳密に言えば、オス・メスともに両性の脳を持っており、どちらの脳が表出するか、その程度には個体差があるが。
 高度文明社会になった今日、男女同権のはき違えにより、女性の一部が男勝りとなり、前頭前野の働きを強化して女性脳を懸命に押さえつけている、といったところであろう。こうさせたのは男どもであり、女性は決して男勝りになることを真から望んではいないのではなかろうか。
 そして、悲しいことに、ヒトはチンパンジーやゴリラたちより、そもそもフェロモンの嗅ぎ分け力が大きく落ち、高度文明社会人は身ぎれいにしようと全身を清潔にするからフェロモン匂がどれだけも発散されない。よって、ヒトのメスがヒトのオスに”なぜだか分からないが一緒にいたい”つまりこれは恋愛感情だが、これを生じさせなくし、女性を一生独身に追いやり、男勝りの女に仕立てていく。
 絶望的ともいえる今日の「男女共同参画社会」の模索である。こうした動きは、男女が相互に前頭前野で理屈をこねて理解し合おうとするからであり、こんなことをしたら女性が負けるに決まっており、根本的に考え方を改めねば女性の未来はない。
 男が女性を、女性が男を、一切理解しようとしてはならぬのである。ここのところはチンパンジーやゴリラたちから学ばねばならぬ。霊長類学は随分と研究が進み、ここから学ぶべき点がものすごく大きいのだが、多くの人々は、類人猿はヒトに進化できなかった能無しであると、彼らを差別しているし、そうであるから野蛮であり、彼らの社会のオス・メス関係はなってないと卑下する。
 彼らが言葉を話したら、こう言うだろう。「俺たちは、オスとメスは別々の社会を作って、それぞれ問題なく暮らしている。それをごちゃまぜ社会にしたら、四六時中爬虫類のヘビと一緒に暮らせと言ってるようなもんだぜ。お前らは馬鹿か。」
 ところで、その馬鹿だが、ウマもシカもその社会はもっとすっきりしている。彼らはオスとメスは別々の群を作り、普段は全く接触しないのである。入り乱れるのは繁殖期だけ。これがオス・メス社会の理想形であろう。
 しかし、そうは言っても、高度文明社会となると、人の男女は共通の空間、共通の物を使わざるを得なくなり、男女相互に妥協して何とか利便性を確保せねばならない。
 その一例として「公園づくりとバター探しの2つ」を以前に別立てブログで記事にしたから、それをご覧にいただきたい。ものも見方、ものごとの捉え方に、男女で大きな差があることをご承知いただける、とても良い例である。
 男性脳は空間、女性脳は時間の論理に支配される
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
4品思い出す。他に1品。4/5で80点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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10.4 生活様式はどう変わるか(その4) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 人類の未来がどうなるのか、その新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して第1回は「庭付き持ち家はいつまで続く」、第2回は「労働形態はテレワークに?」、第3回は「AI革命で仕事はがらりと変わる」について書いた。今日はその第4回。

女性の生活はどう変わるか
 太古からの女性の生活、その立場について歴史を紐解いてみると、日本列島とユーラシア大陸(ブリテン諸島を含む)とでは随分と違ったものになる。前者は遅々とした変化しか示さず、明治以降で急変したのに対し、後者は古代文明とともに激変し、その後の変化はほとんどないのである。
 一方の男はというと、本質的には「男は女の紐」であるのだが、古代文明の発生とともに仕事を無理やりさせられ、ケツに鞭打たれる形で労働を強いられてきた。これは洋の東西を問わないのだが、日本列島の場合は随分と甘さがある、といったところだろう。
 小々奇異な捉え方と思われるかもしれないが、太古の生活は、現在の採集狩猟民のなかに残存しているであろうから、それを少しだけ覗いてみよう。
 現在の採集狩猟民で、まずまず生活環境に恵まれている地域では、食糧採集の女性の労働時間は1日3時間程度である。一方、男の場合は、毎日の食糧採集は女性に任せっきりであり、気が向いたときに男どもが誘い合って狩猟に出かけ、日帰りで獲物を持って帰ることもあれば、何日も出かけたままで手ぶらで帰ってくることもあるという。手ぶらの場合でも、女性たちは男どもに何ひとつ文句を言わないそうだ。
 なんせ採集狩猟民の部族のなかには、「遊び」と「労働」を区分けする言葉がなく、両方をごっちゃにした言葉しかない集団も存在するのだから、「仕事をしなければならない」という観念は生じ得ないのである。要するに男どもは毎日が遊びなのである。
 こうしたことが尾を引いているのかどうか知らないが、西欧では「労働は下賤な階級の者どもがすることであって、労働から解放されることを望む」というのが、一般社会通念となっている。まあ、これは、古代文明以降、大半の人々が奴隷であったことに起因するであろうが。
 西欧社会の女性の立場がものすごく脆弱になった、つまりひどい男尊女卑に変わったのは、文明化と同時に急激に起こったと思われる。農耕牧畜の発生と同時にできたであろう私有財産制がそうさせた。大陸での農畜産物の生産は、気候変動の影響をもろに受け、数十年から2百年ぐらいのスパンで繰り返される地球の寒冷化が訪れると壊滅的な打撃を受け、食糧を失った民族の大移動、それは、飢えた民族の、持てる民族の地域への侵略と奪略であり、大量殺戮が伴う。これが起これば、人間社会の制度は、財産防衛と臨戦態勢構築が最優先がために、大きく変わらざるを得ないのである。
 その結果、婚姻制度は早々に父系の一夫一婦婚となり、男が財産と女を支配するようになった。また、奴隷も一夫一婦婚させ、夫婦で責任をもって奴隷の再生産をさせた。西欧においては、この婚姻制度が早くして成立したがために、大方の人々がこの婚姻制度が太古から変わりなく続いているように考えているが、これは大きな間違いである。日本においては、大陸のような他民族の侵略と奪略に遭わなかったから、婚姻制度はゆっくりと変化していったのであり、母系の多夫多婦婚がかなり最近まで続き、男どもは複数の女性を相手とする通い婚であって、女性優位の社会がずっと続いた。もっとも支配層では戦国時代あたりから臨戦態勢最優先がために西欧と同様に父系の一夫一婦婚へと遷移したが、下々までもが全てそうなったのは戦後になってからである。
 庶民までもが一夫一婦婚し、女性が夫の支配下に置かれるという家父長制は、明治になって政府の力でもって制度化され、かつ、強化されたのであり、それが定着し、戦後しばらくまで実質上は続き、現在においても残存している。
 
 民主主義社会になったから男女は平等、とはまいらない。古代ギリシャ市民は民主主義社会を構築していたのだが、強固な家父長制を敷いていた。古代ローマも帝政を敷くまでは市民は民主主義社会であり、古代ギリシャと同様だ。西欧においては近代民主主義社会になって、家父長制は取らないなど表面上は男女平等を装っているも、男どもの女性蔑視は根深いものがあるようだ。旧約聖書に、イブはアダムのあばら骨から作られたとあるように、女は男とは違って欠陥製品だという感覚が、男どもにはあるとのこと。日本人には信じられない話だが。
 その点、日本では、男どもは女を支配したいという願望を持ってはいようが、欠陥製品なんてことは思いもしないし、子を産んで育てるという立派な存在という意識が強いのではなかろうか。もっとも、男と女では思考回路の違いがあって、互いに異性は何を考え何を思っているか、さっぱり理解できない異質な存在であることは確かなようだが。
 そうしたことから、表題にした「女性の生活はどう変わるか」については、男である小生には推測しようにも、何ともしようがない面がある。しかし、男の歴史はたいした変化はしないだろうが、女性の歴史は今までがそうだが大きく変わってきており、将来は激変するような気がしてならないのである。それがどうなるか、おおいに興味をそそられる。あまりに激変するようであれば、世の中がひっくり返り、それが波及して男どもにも激変が生ずるのか、はてさてどうなるものか、興味が尽きない。

 そこで、戦後から現在に至る女性の生活の変化を、まず簡単に整理しておこう。
 戦後しばらくまでは、女性の家事労働は炊事・洗濯・掃除あらゆるものが手作業であり、時間もかかれば、毎日が重労働でもあり、女性は専業主婦の道しか、まず取り得なかった。それが、1950年代には冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが「三種の神器」として登場し、1960年代になるとカラーテレビ、クーラー、自動車(カー)が新たな三種の神器「3C」として広がり始めた。こうなると、女性は家事労働から大きく解放され、自由時間が大幅に増えた。
 その結果、専業主婦はだんだんパート労働者になっていくし、仕事と家事と育児も両立させて正規労働する女性も大きく増えてきたのである。
 その後も、家事労働や買い物の利便性は時代が進むにしたがってどんどん向上してきている。今日に至ってはコンビニ店とネット通販の普及で、それが加速された。この傾向は将来まだまだ進む。
 こうなると、家事なるものは、有って無い存在と化すことになる。

 こうして女性が働きやすい環境がどんどん整ってきたものの、唯一の例外として女性に残された厄介な問題は、出産・子育ては昔とほとんど変わらないことである。
 こればかりは、いくら時代が進もうとも、相手が相手だから省力化・合理化・自動化に馴染まない。いや、逆に、昔に比べてよけいに手がかかるようになってきた。昔は、周りに手助けしてくれる人がいたり、年上の子が面倒を見たりしてくれたが、今は母親一人で全部しょい込まねばならないケースが多い。
 加えて、母子ともに身ぎれいにしておかねばならぬから、例えば食事を与えるとき、幼児が口からこぼさぬよう、よだれを出さぬよう、などなど付きっきりで世話せねばならぬ。昔のように、よだれが母子の衣類に付いたって一向にかまわない、では済まされなくなったのである。食事以外の場合でも、身ぎれいにしておかねばならず、ほったらかしにはできなくなってしまったご時世であり、母親は子どもの世話で振り回される。
 女性にとっての他の部門の生活改善がスムーズにどんどん改善されてきているのに比べて、育児環境の改善度合いは遅々として進んでいない感がする。
 いい例が待機児童である。小学校に入れば義務教育となり、小学校入学待機児童は一切ないのに対して、保育園入園待機児童があるなんて、あまりにもおかしい。少子化を防ごうとするなら、真っ先に解消せねばならない課題である。
 少子化を大問題とするのであれば、子どもは社会の宝であり、出産から3年間は母親が付きっきりで面倒が見られるよう、所得などの制限を一切設けず、全ての母親に育児手当を年間3百万円ぐらい与えたって一向にかまわにであろう。 
 とにかく、安心して子が産め、安心して子を育てられる環境整備が急務である。そして、その間、社会復帰できるよう以前の仕事のスキルアップを自宅でテレワークし、育児休業が終わり次第、前の仕事に復帰してバリバリ働けるような制度改革が求められる。
 これは政治がどうするか、で全部決まることだが、今の状況をみていると、実に歯がゆい思いがする。女性を限度いっぱいまで我慢させ、足らず前は夫で補えという、若者たちへの押し付け政治、これでいいのか、である。老人医療だの、老人介護だの、年寄りを重視しすぎる政治には辟易とする。
 人類進化に関して“アクア説”を広くこの世に紹介した英国のエレオン・モーガン女史(2013年没)が「女の由来」(1972年出版)のなかで、次のように言っておられる。
 私自身としては、(子ともは)生まれてから4、5年は誰か一人の大人(母親)とのあいだに個人的で親密な持続的関係を結べたほうが、子どもにとって幸せだろうし、健やかに成長できるのではないかと考えている。…
 子どもが5歳ぐらいになると、社会は膨大な金を投じて、…小・中学校および高等学校の教育に膨大な予算をつぎこんで…社会になにがしかの貢献をなさせるように育て上げようとするのだ。
 …もしなんらかの理由から、5歳からではなく赤ん坊が生まれ落ちたその日からの“養育”が社会の手に委ねられることになれば、その費用は驚くべき数字になり、…(今の政府はそのための予算を決して組まない。)
 社会に代わってこの養育を行なっている母親の仕事はもっと評価されるべきであり、それに対しては賃金が支払われてしかるべきだ、と声高に主張するつもりは私にもない。しかし、…母親業という職業が経済的にまったく評価されていないという事実…が、今日まで多方面にわたり、多大な影響を及ぼしてきたことは間違いない。
 会社勤めのサラリーマン…これとは対照的に、育児はーー同じく社会経済にとって欠くことのできない職業でありながらーーどの点から見ても零細家内企業だ。仮に、夫のほうがアパートーー机も電話もちゃんとあるーーに残って仕事をし、妻が朝8時には家を出て、子どもの面倒を見るという骨の折れる仕事に出かけるというシステムを考えたらどうだろう? 彼女の行く先は、近くのこぢんまりした1区画を整地してつくられた、育児センターだ。センターは…砂場…育児用プール…お昼寝部屋、おむつ用コインランドリー、子供番組専用のテレビルーム、…子ども食堂、母親たちが交替で食事をとれるカフェテリアなどが完備している。…ミルクを調合したり、哺乳瓶を消毒したりするプロの職員がいる。…清掃係がいて、1日の終わりにはきちんと掃除をしてくれる。
 こうしたシステムが整っていれば、妻も、自分のやっている育児という仕事も夫の仕事と同じくらい重要なものである、と感じるようになるかもしれない…。そうなれば妻は、母親である自分にも、少なくとも保育を職業としている人たちと同じくらいの施設や設備、同じくらいの報酬が与えられてしかるべきだと思うようになるだろう。偏見やこだわりを捨ててよく考えてみれば、育児は他のどんな仕事にも負けないくらいやりがいのある、創造的な仕事であるとさえ思えてくるかもしれない。…
 …子どもとの関係の中で女が得ている生物学的報酬が昔より少なくなっているように見える大きな要因は、環境システムが整っていないことにあるのは間違いない。
(引用ここまで)
 もう50年も前の英国事情を踏まえてのモーガン女史の見解であるが、今とどれだけも変わっていない。けっこう控え目な要求であるが、育児環境は前進しないのである。
 こうした育児改革がないことには、女性の生活は大きく変わることはない。なんだか男どもが女性たちに意地悪(女性にハンディを負わせる)して、旧態依然の状態に女性を止め置こうとしているように感ずる。それも世界中の男たちが政治の力(育児予算を組まない)でもって。
 あらゆる分野でイノベーションが進むなか、育児イノベーションが大きく進むことを願ってやまない。それなくして、女性が女性らしく、生き生きとした人生を送ることはできないであろうし、女性が安心して社会で活躍することもできないであろう。
 今の世の中、その先もずっと、女性が生き生きとした人生を送るには、唯一の手段として、女性という性を捨て、独身を決め込み、男と真っ向勝負の仕事人になるしか道がないように思われる。つまり、男勝りと言われる女にならなきゃ女性はまともな仕事ができないのである。
 これでは悲しすぎる。 
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
5品思い出す。うち1品は別のもの。他に1品。4/7で60点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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10.3 生活様式はどう変わるか(その3) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 人類の未来がどうなるのか、その新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して第1回は「庭付き持ち家はいつまで続く」、第2回は「労働形態はテレワークに?」について書いた。今日はその第3回。

AI革命で仕事はがらりと変わる
 石器時代を生きた人は全員が採集狩猟民でオール一次産業の従事者であった。古代文明が誕生した頃、道具の飛躍的な技術革新が起こり、農耕牧畜の生産性が飛躍的に高まり、輸送能力もアップした。これを鉄器革命というが、第一次技術革命と言っていい。
 これによって、人はオール一次産業従事者から、一部の人たちが二次産業の製造業従事者、三次産業の商人そして公務員(役人と兵隊)になった。そして、一次産業は高度化し、採集狩猟から農耕牧畜となり、仕事の内容が大きく変わった。
 その当時、まだまだ一次産業従事者が圧倒的に多かったが、これはどれだけも変化することなく、近代を迎えた。そして、産業革命がおこった。第二次技術革命である。製造・運搬といったものが全て人力(牛馬の力を借りることはあっても)で行っていたものを、その何十倍もの力学的馬力を作り出す蒸気機関の発明と急速な普及である。これによって、労働生産性が一気に飛躍的に向上した。
 このとき、人力による手工業従事者が失業したかとなると、そうではない。製造業は人手不足となり、かなりの農耕牧畜業従事者が製造業に従事することとなった。大量に安価に製品が作りだされ、輸送コストも格段に小さくなり、需要が爆発的に膨大なものとなったからである。物質文明社会の到来である。
 産業構造も変化し、二次産業従事者が増えるとともに三次産業従事者も増え、卸小売業だけではなく、サービス業も大発展し、公務員も増えた。
 間もなくして蒸気機関が内燃機関に代わり、鉄道・道路網が整備され、第二次技術革命は着実に高度化されて成果を上げていく。つまり、さらなる労働生産性の向上であり、一次産業は機械化により、その従事者は大幅に減った。二次産業は物質文明の担い手であり、その後の生産量は何倍にも何十倍にもなったが、労働生産性の向上のほうが大きく、従事者を漸減させた。それに代わって、余剰労働力は三次産業に吸収され、今や三次産業が最も従事者数が大きくなったが、それでも労働力不足だ。これが先進国の実情である。

 さらなる労働生産性の向上は、コンピュータが担ってくれるようになった。
 50年ちょっと前までは、数値集計するのにまだまだ算盤を使っていた。子どもは算盤塾へ通い、2級の資格を取ると就職に有利という時代であり、学業のけっこうな部分を塾通いに充てたものである。小生とてそうであった。それが、50年前には一気に電卓が普及し、もう算盤の時代でなくなり、珠算2級の資格は無意味なものになった。広くコンピュータに人間が負けた第1号といっていいであろう。
 その後、コンピューターは順次性能を上げ、ロボットが製品を人間以上に間違いなく作る分野が広がってきた。でも、現在まだまだコンピューターは本領を発揮していない。
 今、学校教育では英語の授業が一昔前より強化されている。グローバル社会を迎え、日本人全員が英語を読み書きでき、しゃべられるようになる社会を作ろうとしている。なんともトンチンカンなことをやっている。うちのアパートには外国人がけっこう多いのであるが、日本に来て間がなく日本語が分からない人は、翻訳機を手に持って、ここに話しかけてくれと言う。すると、彼の国の言葉にすぐ翻訳されて、意思疎通できるのである。もっとも、今現在は分かりやすい日本語を短めの文章でしゃべらねばいかんが。
 これは、50年前に一気に出回り出した電卓に似ている。当時の電卓は今のものとはちょっと操作が違い、少しは使い方を覚えないと計算間違いした。
 翻訳機もそうで、年々使いやすいものに技術改良されていき、10年以内にビジネスの世界においても、あらゆる分野で機械翻訳が実用化されると考えられている。こうなると、学校教育の英語授業は何のためにやっているのか、ということになる。算盤塾が消滅したように、英語の授業も消滅する運命にあるではないか。英会話スクールとて当然に消滅する。来年に日本でオリンピックが開催されるかどうか怪しいが、諸外国から日本語の話せない人が大勢来たって、日常会話程度のことなら、今の翻訳機で十分間に合う。小生が今、インド人と話をしているように。

 時代がここまで進むと、もはや単なるコンピューターではなく、人工知能(AI)ということになり、これが普及すれば、定型的な仕事は全部AIに代替され、単純作業の業種は姿を消す。近い将来、必ず訪れるであろう第三次技術革命の到来である。
 これは、一次、二次、三次、どの産業にも全体に波及する。農業従事者は種蒔き、収穫作業から解放される。工場労働者の定型的な現場作業はなくなり、ほとんど無人化する。三次産業もその多くがAIロボットで代替される。スーパーのレジ係は今なくなりつつあるが、早々に無人化されるであろうし、単に宿泊するだけのビジネスホテルなんぞは受付と各室にパソコン端末が置かれるだけで従業員不在の無人の館と化す。
 となると、街は、AIに職を奪われた失業者であふれかえるのではないか、と心配になってくる。でも、決してそうならない。過去の歴史がそれを証明している。熟練した職人が技術革新で職を奪われ、当の本人は路頭に迷うことになっても、世の中、別の新鋭業界が伸びてきて人手を欲しがり、その職人の跡継ぎは別の教育を受けて新たなスキルを身に付け、他の業界に入っていくのである。
 AIが普及すれば経済は間違いなく発展し、経済発展すれば人手不足となるのが資本主義経済の姿である。これが資本主義のいい点であり、また、反面、怖いところである。

 さて、将来的にはどんな業種に労働者が増えるのであろうか。
 医者とて、もう始まっているが、患者を問診したり、血圧や体温を測ったり、検査したりしたデータをパソコンに打ち込めば、病名診断と処方する薬がたちどころに画面表示されるのであり、何も医学部を卒業して国家資格を取らなくても、誰にでも簡単にできる。また、定型的な簡単な手術なら、AIロボットが医者以上に上手に措置してくれるのも間近いであろう。難しい手術となれば、これは手が不器用な医者に任すより、建設業界からAIロボットに職を奪われた、手がめっぽう器用な熟達した大工さんを採用し、AIの指示を受けてノミの代わりにメスをふるわせた方が上手に手術できるだろう。医者も今のようなスキルしか持ち合わせていない人間は失職する。人口は増えないから患者も増えない。一人一人の病気もそうは増えない。つまり、医療対象が増えない状態で労働生産性が大きく高まるのだから、医療従事者数は大幅に減らさざるを得ないのである。
 高度科学技術文明の恩恵に浴する時代となると、既に今がそうだが、その昔の「読み書き算盤」程度の基礎教育ではスキル不足で社会人として使い物にならなくなった。よって、誰しも高等教育を受けるようになってきた。が、しかし、科学技術のスキルを身に付けても、その仕事は大半がAIロボットで代替されてしまい、職に就けない。
 将来は、AIには不可能な仕事、つまり、人間には、より創造的な仕事が求められるようになる。「自分で疑問をもって、自分自身に問いかけをしていき、そのなかから何か新しいものを生み出していく」ということになり、そこから付加価値の高い新規産業が大きく発展していく、ということになりそうである。
 また、科学技術はますます高度化するであろうから、最新と言われるものもすぐに陳腐化してしまって、習得したスキルの有効期間は今以上により短くなっていく。ここで求められるのは、臨機応変に技術の変化に対応できる基礎学力であり、その根底にあるのは幅広い教養であろう。これを義務教育から取り入れていかねばならぬ。英語の授業を止めて、それを教えねばいかんのである。まずは哲学だ。哲学を軽視するようになった昨今の日本である。哲学なくして、知的な創造性を呼び起こすことはできないであろう。
 ところで、全員が全員、高等教育を受けるにふさわしい学力的能力をもっているわけではなく、昔の寺子屋程度の学力でギブアップする人間も数多くいる。その代わり、彼らは別の能力を持ち備えているに違いない。それは人と人とのコミュニケーション技術であり、そのスキルが高い傾向にある。それが発揮される業種は今でもあり、今後それ(サービス業)が大幅に増大する。
 例えば高ランクの宿泊業・飲食業などにおけるホスピタリティつまり『おもてなし』、世界ホテル業界ではリッツ・カールトンが有名だが、これは日本人の最も得意とするところである。そして、また、これは人間にしかできない非常に質の高い仕事であり、事の性質上、マニュアルどおりに展開させられないから、往々にしてAIが出す理屈オンリーの判断の逆をいかねばならないことが多々あり、ここは人間力の独壇場となる。
 将来は、世界中から日本に、高度なホスピタリティを求めて観光客が訪れるのは間違いない。観光立国大国となりそうな日本である。もっとも、良き日本文化から湧き出してくる『おもてなし』であるが、悪しき欧米文化に染まりつつある日本ゆえ、将来は訪日客の期待を裏切ることになるかもしれないが。
 まあ、ここのところは「三つ子の魂百まで」であるからして、易々とは日本文化は消えず、当面は安泰であろうから心配は及ばぬことであろう。

 こうしたことを想像していると、日本人の未来像は次のようなものとなる。
 農業従事者は今以上に機械を扱うようになり、土いじりはせず、エアコンのかかった管理室でドローンやAIロボットの監視をしつつ、主な仕事は新製品のAI導入の検討と経営の安定化・向上に心血を注ぐことになる。かなりの頭脳労働となり、農業を後継する若者は理工系の基礎学力をうんと高めねばならない。
 製造業従事者はほんの一握りのエキスパートしか要らなくなり、知的能力が極端に高い、成績優秀者が研究に没頭するということになる。その皆が、アインシュタインやビル・ゲイツと同じように大学では落ちこぼれとなるも、そうした人物が大活躍するであろうから、大学教育も大幅な変革が求められる。
 三次産業従事者のうち、ほんの一握りのエキスパートは、製造業従事者と同様な道を歩む。これなくして三次産業の本質的な質的向上は望めないからだ。
 他の大多数は、読み書き算盤の基礎学力を身に着けたところで総合教養を学び、ホスピタリティを高めていかねばならない。その学び方は千差万別。高校・大学の講座で学べるのはほんの一部であり、逆にマイナスにもなることがあるから、ここは多くを実践のなかから学び取るしかない。基礎的な総合教養は高校までで十分に学べるから、大学へは行かず、最初は接客専門学校に通いながら、実践するなかで独学でつかみ取るといったことになろう。これは、かなりなハードワークだ。よって、簡単な仕事だからといってボケーッと毎日を過ごしていると、いつまで経っても低賃金の最下層の仕事(これもAIで大半が代替されているから少ない)に在り付けるのがせいぜいで、多くは失業することになる。
 こうして、どんな業種でも、それぞれに適した高度なスキルを持ち備えていないと食っていけなくなる、一面、恐ろしい社会になる。早め早めに自分に備わっているオンリーワン能力を見い出し、それをスキルアップしていかねばならないのだ。
 そこで、政府が打つ失業対策事業が重要なものとなろう。人間には各人それぞれ個性があり、その個性は自分ではなかなか掌握できない。家族や周りの者とてそうである。それを見い出してくれるのは第三者であり、そうしたエキスパート集団(失業対策事業機構)に頼るしかなかろう。それがうまく機能してくれるのを祈るのみである。

 こうして見てくると、将来の世の中は、今よりも忙しい毎日となる。勉強、勉強また勉強、それも何を勉強したらいいのかを自分で探し出さねばならないし、仕事は絶えずスキルアップしていかねばならなくなるし、これで安心と思ったとたん、その高度な仕事が新たなタイプのAIに奪われるかもしれない。
 経済学者のE.F.シューマッハーが1973年に「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。」と言ったが、将来はますますそうなっていくに違いない。やはり恐ろしい社会にどんどんなっていく。
 その昔、古代ギリシャが繁栄していた頃、アテネの人口のうち市民は5%で、奴隷が95%を占めていたという。警察官だって奴隷にさせていたから、市民は何も仕事をせずに遊んでおられ、男どもは暇に任せて頭脳遊びでもしようかと、哲学が大きく花開いた。哲学の延長線上に位置する自然科学の基礎も確固たるものが生まれた。生物学における生物分類もそうだし、宇宙物理学もそうだ。地球や惑星は太陽を回る球体であることを知り、地球・太陽間の距離や地球の大きさまで概ね正しくはじき出したのであるから、古代ギリシャの哲学者はすごい。もっとも、地球がかようにも高速で回っては、オリンポスの山に住む神々が目を回してしまうから困るとばかり、地動説は葬り去られてしまったが。
 日本の将来も、生産・サービスといった仕事は、その95%がAIで行ってくれるだろうから、人間様はアテネ市民と同様に遊んでおられると錯覚する者がおるようだ。だが、本質的に違う。アテネの奴隷は自分のことは全部自分で行い、奴隷の再生産(子どもを作る)も当然行い、奴隷が作り出した財をアテネ市民が単に一言命ずるだけで(多くは何も言わなくても)簡単に収奪できたから、市民は仕事は何もしなくてすんだのである。
 しかし、今、想定されているAIにそれだけの能力はない。
 遠い遠い将来、アテネの奴隷と同様に、AI自身でその人工知能装置を自己再生産するとともにそれを稼働させるエネルギー源をAIが自ら作り出し、かつ、人間様の痒い所に手が届くような『おもてなし』知能をAIが獲得すれば話は別だが、一足飛びにそこまで科学技術が発展することは決してなく、これは夢物語に終わる。
 シューマッハー理論は、資本主義経済が続くかぎり適用される性質のものである。世の中、便利になればなるほど忙しくなるのである。さーて、人間、どこまでこれに耐えられるであろうか。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
6品思い出す。うち2品は別のもの。1品はなし。他に1品。3/8で40点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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9.22 生活様式はどう変わるか(その2) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 人類の未来がどうなるのか、その新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して第1回は「庭付き持ち家はいつまで続く」について書いた。今日はその第2回。

労働形態はテレワークに?
 テレワーク(在宅勤務)は米国西海岸で始まったと言う。朝のすさまじい交通渋滞で車通勤に時間がかかりすぎ、それに地震災害が被さってテレワークが大きく加速したという。今般のコロナ騒動で、日本では東京を中心に急激にこれが導入された。
 しかし、日本でこれがどれだけ進むであろうか。デスクワークで能力主義の出来高払いを基本とする米国であれば、ホワイトカラーは言ってみれば個人事業主と同じであり、会社から委託業務を請け負うのと大差ないから、仕事はどこでしてもいい。
 ところが、日本の場合、全く労働文化が違う。年功序列、勤続年数そして部長・課長・係長という肩書がまだまだ物を言い、皆で協力し、そのチームワークで部・課・係全体の評価が下される傾向が強い。
 よって、オフィスは米国の場合、個人個人に間仕切りされ、没交渉で仕事をこなす傾向にあるのに対し、日本は、部少なくとも課はワンフロアにあり、個人個人の間仕切りはなく、部長少なくとも課長は部下全員に目を光らせる。
 このどちらがいいかは、各国の労働文化によるものであって、評価比較できない。
 日本の場合は、上司が目を光らせると言っても、サボっているかどうかより、仕事をどう処理していいか困っている部下を見つけて手を差しのべることに注視しているということであろう。
 加えて、チームで仕事をする場合、日本では釣りバカの浜ちゃんのような存在も貴重だ。また、ラグビーW杯日本大会で日本代表は「ワンチーム」を合言葉に結束力を高めた。つまり、日本人では、個々人一人一人の能力の単なる足し算ではなく、個々人が互いに協力して総合力を高めることに大きな意義があるのである。そうなると、テレワークというものは随分とハンディになるのではなかろうか。
 もう一つ労働文化に違いがある。欧米の本質的労働観は「労働は奴隷の仕事であり、下賤の者に強制してやらせる性質のもの」である。それが、産業革命以降はブルジョアジーの登場により、経営者が経営管理するという労働が生まれ出て、成功者がより良い生活を営むために銭を稼ぎまくるのが新たな労働観として生まれた。そして、元々の奴隷階層(経営者に使われる使用人)がその能力に応じてけっこうな稼ぎができるようになった、といったぐあいに若干変わってきている。
 一方の日本は、労働とは「ハタラク=傍(はた)を楽にする」ことであり、生きている限りハタラクのは当たり前であり、死ぬまでハタラクことを続けることに大きな喜びを感ずるという高尚な文化にある。
 このように労働観は、欧米と日本では水と油のように違う。
 明治維新以降、特に戦後そしてバブル崩壊以降、労働観についても段階的に欧米化が進みつつあるが、まだまだ本質的な価値観は変わらない。文化というものはそう易々とは変わり得ないものであるからだ。
 だが、しかし、何もかもグローバリゼーション化しつつあり、あまりに急激に進むから若干の揺り戻しがあったりするが、だんだん日本文化もすたれていくことだろう。
 労働観もだんだん変わり、そして、テレワークもだんだん進むと考えるしかなかろう。今般のコロナ騒動で、それが一気に進む気配さえする。だんだん殺伐とした社会に進みそうだ。
 人間が幸せになるには、日本的労働観が一番だと思うのだが、その昔、一時、欧米でもそれがもてはやされた時期があったものの、このやり方には馴染めず、企業間競争に敗れたのであろう、最近はとんと聞かない。どこか日本の大企業が日本的労働観を強力に推し進め、大成長でもしない限り、世界に日本的労働観の良さを指し示すことはできない。でも、これは無理な話だろう。なんせ大企業が米国的労働観を率先して導入しているのだから。

(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
5品思い出す。他に1品。5/6で80点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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9.20 生活様式はどう変わるか(その1) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 7月16日の日記に「新たな研究テーマに孤軍奮闘立ち向かおうとしている小生である。どんなテーマか? それは、人類の未来がどうなるのか、についてであるが、まだまだ頭の中で何かがもやもやしているだけといった状態」と書いた。
 テーマをもっと絞り込みたいし、絞り込まねば答えも出てこない。これは分かっているも、最初から特定の事項に絞り込むと、周りが見えなくなってしまうから、今の段階では最大限広く構えないと前へ進みそうにない。
 これまで「ヒトの形質変化は将来どのように進むだろうか」に関して5回にわたって書き、「科学技術の大発展がもたらすもの」と題して6回にわたって書いたが、新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して思いのままを綴ることとする。その第1回。

庭付き持ち家はいつまで続く
 分譲住宅、建売住宅、こういったものが目に付く当地である。アパート建設もけっこうある。面積は極めて狭いが人口が毎年増えている我が岐南町である。交通の便が良く、あらゆる店がいっぱいあって生活の利便性も高いからだ。
 小さな子供を抱えた夫婦が分譲住宅や建売住宅を購入して永住する、この傾向が高いと思われる。新築で庭付き、といっても最近は庭はなくて駐車スペースが広い家が目立つ。これは合理的である。単なる庭は生活上何ら役に立たず、夫婦2台の車と来客用の車1台が停められると使い勝手がいい。間取りも、子ども1人2人が大きくなってもいいように合理的に考えたものになっている。
 でも、これでいいのであろうか。
 子どもは1人と決めて間取りを考えていても、2人生まれたり、双子であったりしたら困るであろう。連れ添いが早死にすることもある。働き盛りに障碍者となって車椅子での生活を強いられるようになることもあるし、年老いて早々に介護が必要にあることもある。サラリーマンだったら予期せぬ転勤で遠方に勤務地が代わることもある。
 つまり若い人が持ち家に永住するメリットがあるのかどうか、疑問である。家族数人が順調に予定通りに何事もなく年齢を重ねていけば、それなりに便利ではあろうが、予期せぬことは往々にして突如訪れるものである。
 近年は若い人に中古住宅に対する抵抗感はなくなる傾向にあるという。年寄りは古い持ち家が使いにくくて高齢者用マンションに引っ越す人もだんだん出てきている。転勤族は退職するまでアパート住まいを決め込む人もいるし、マンションを売って転勤先で空きマンションを買うということもある。
 これが加速しないだろうか。いや、きっとそうなるに違いない。
 結婚したらまずは2人で住むに都合のいいアパートに入る。子どもが生まれたらもう1部屋多いアパートに引っ越す。子どもが2人になったらまた引っ越す。転勤になったら職住近接でまた引っ越す。子供が成人して出て行ったら狭いアパートに引っ越す。年を食えばバリアフリーのアパートに引っ越す。
 といった具合に、そのときそのときに一番使い勝手のいい間取りの住宅で過ごし、職住近接を図るのがとても合理的ではないか。
 休みの日には庭いじりしたいとあらば、木造1戸建ての空き家を借りればいい。今はそうした住宅はいくらでもある。都市近郊で家庭菜園をしたいと思ったら、最近は貸農園がいくらでもある。なんだったら広い畑1枚全部1人で借りることもできる。
 どんな要望にも応えられる住宅に住まうことがますます可能になってくる。
 これはどんどん加速するだろう。その背景には「家制度」の崩壊がある。先祖伝来の土地なり家というものを守らねばならないという考え方はもう終わった。
 よって、先祖伝来の墓を守りするという考え方も消えつつある。墓は、親の世代は親の世代で考えて対処し、世代が子の世代になったら、とても守りできないとなれば墓をきれいさっぱり整理すればいいのである。
 全てのしがらみから解き放たれ、自分そして生計を一にするその家族が気ままに生活する場を転々とする、これでいいのであり、また、そうすべきである。
 孟母三遷、ベートーヴェン引っ越し79回、葛飾北斎引っ越し93回。これを見習うべし、という世の中になりそうだ。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
7品思い出す。他に1品。7/8で90点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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9.10 科学技術の大発展がもたらすもの(その6) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1

 朝方、昨日の一楽を書き始め、おおかた出来上がったところでパソコンの不具合がために、記事が消えてしまった。やむなく再び一からキーボードを叩くも、その半ばで操作ミスをして、これまた全部きえてしまった。こうなると、同じことを3度も繰り返す忍耐力は失せてしまい、“試合放棄”。よって、書き溜めしてある「人類の未来はどうなるか」に関するものを、今日の一楽に代えて投稿することとした次第。

 「科学技術の大発展がもたらすもの」第5回で「食糧資源はどうなるか」と題して書いたが、これに関りが深いものを2年前に別立てブログで書いた。それを紹介しよう。

日本という高度科学技術文明社会の将来はどうなるの?
 「食生態学入門」という書があります。1981年発刊ですから、もう37年が経とうとしており、随分と古い本ですが、現代にもずばり当てはまり、興味深いものがあります。著者は亡き西丸震哉氏で、氏が58歳のときに書かれたものです。氏は、農水省の異色官僚(中途退官)、食生態学者、エッセイスト、探検家、登山家など幅広い分野に精通していた「変人」といってもいいでしょう。以下、「食生態学入門」から抜粋します。
(以下引用)
 …すべての動物を責めさいなんできた最大の苦痛は飢えであった。この飢えから逃れるためには、動物はどんなことでも血相をかえて努力しないではいられない。
 飢えから開放されたとき、身体は休息をとりたくなり、心は安らぐ。…
 飢えからの開放が一時的なものではなく、おそらく永続的にその心配がなくなったと期待できるとき、…安楽追求へと動き出す。エサを求めてかけずりまわることがごく当たり前のときは、かけずりまわることを苦痛とは意識しなかったが、労力を減らしてもエサが入手できるようになると、もはや労働を苦痛として受けとめるから、こんどは労働という苦痛から逃れようとする。
 安楽の追求とは、ひとくちでいえば横着をきめこむことで、人間の現在の文明化という路線は、横着を徹底して追及しようとする願望にほかならない。…
 人間が横着をしたいとき、使われる側よりも使う側のほうが楽であるから、使う側にまわりたがる。職員は役員に、庶民は貴族になりたがり、なにもしないで生きていける立場に自分を置きたいと考える。
 文明の方向には理念の追求や、精神面の開拓、芸術、美術などいろいろあるが、これらすべて、ひまができてはじめてその存在を認識できる。しかしいちばん人間にもてはやされるものは、横着を助長することを保証する科学文明という方向であった。…
 人間が生物としての基本的労働をやめて、余った力を自分の好みの方向に使うことになるかというと、楽になったところでとどまって、スポーツは見る側にまわって自らは動かず、旅行とは乗り物が動きまわるものとなり、ケーブルカーが山登りするのに便乗し、…スキーは登りをやめてしまって滑るという後半だけのものとなった。
 洗濯は洗濯機、それに脱水機がつけば新しいものに切り替えなければ気がすまず、かつては下僕にやらせ、後進国での宗主国人ならば土着民を雇ってすませたような仕事は、今の文明国では労働力がないので、しかたなしに機械にその肩がわりをさせることで埋め合わせをする。
 はじめのうちの機械は人間の能力のほんの一部でしかなかったから、御主人がそれにつきそって働かされていたが、ついにはワンタッチですむようにまで横着化は進んだ。ひと声命令すれば下僕が動くところまで、もう一息だ。
 何十人かの下僕にかしずかれた王様が、まったく自分では動く必要がなかったのにくらべると、返事をするかしないかのちがいだけで、労力的には王様と少しもちがわないことをやってもらえる大衆が存在するようになった。
 日本人の1億の大多数が王様であるなら、もしその下にかしずく下僕がいたら、日本の国土には何十億の人間がひしめくことになる。それがいなくてすむだけでもたいへんな幸せだという考え方ができる。…
 日本に住む1億人は、使用人は人間でなくとも、まちがいなく1億人の王様だ。…
 まわりじゅう王様ばかりなのだから、やたらとまわりが気になって、体面維持は容易なわざではない。むかしのほんとうの王様のまわりには王様などはどこにもいなかった。
 日本人から見ると、アメリカ人あたりは自分たちより王様ぶりがよく、キング・オブ・キングスがやたらと住んでいるから、せめてあの程度にならなくちゃあと考える。…
 日本人は野次馬根性がとくに強く、オッチョコチョイだ。他人のよさそうなところを、自分とのちがいを深く考えることなく直輸入して、その結果がおかしくなったとしても、気にしない。日本人にとっていちばん気になるのはアメリカ人の生活である。
 …低級な味のものをパッと食べることができるシステムを近代的だと信じ、カッコいいという気になると、それを食べなければ時代から取り残されるようなあせりを覚えて、まずくてもまずいと思えず、これで幸せなのだと自分を納得させ、そのあげくうまさの感覚をも自分でたたきつぶしてしまう。
 使い捨てが現代人のすることだと、だれかが叫ぶと、自分の収入がどうであれ、…景気よく捨てることで満足した気になれる。…こういうやり方をすれば、あくせく働いて…買い込まねばならないから、ゆとりを作る方向ではなくて、ますますかけずりまわって人よりよけいに働かねばならず、ゆったり遊ぶ気持ちも出てこない。その遊びも、一流文明人はこういう遊びをやるものだといわれると、自分の趣味がどうであれ、いっせいにその遊びに突進して、血相かえてレジャーに取り組む。日本人には、この路線が身動きできない終点に着くまでは、絶対に心の平静が訪れなくなった。…
 モノに取りかこまれ、人にもっていかれないようにいつも気を配り、人情がうすれ、そして人間の究極の幸せとはこれなのだと、だれかに断言されれば、なるほど自分は最高の幸福をつかんだのだと満足して死んでいける。こういう日本人と太刀打ちできる民族はどこにもないだろう…
(引用ここまで)

 西丸氏は、このように科学技術文明というものはどういうものかをとても面白く表現しておられます。“日本人1億人みな王様”とは恐れ入りました、です。本書が書かれてから37年が経とうとしているのですから、それから随分と便利になった現代です。
(中略)
 もう一つ、西丸震哉氏の同著「食生態学入門」から抜粋します。
(以下引用)
 人間の心ーー適量の人数よりもはるかに多数が一定空間に生息すると、共同生活ができず、ぶつかりあってお互いにいらいらしてカラカラの世相となる。
 じつはこれは人間社会だけのことではなく、水槽内のグッピーの社会をみると、一定数になるまではふえつづけるが、限界を超えると親が子を追いかけまわして食うようになり、一定数以下になればこの闘争はやむ。…
 地球上に40数億人の人間が生存している…
 あまり聞かれない表現で、…人権を無視したと思われそうな方法だが、目方に換算してみると、約1億7000万トンとなる。単一の種の動物が地上にこれだけ生きているということは、生物の歴史のなかでごく当たり前のことだったかどうか。
 …クジラ類だが、…かつてもっとも多かったときにどのくらいの量になったかを推算してみると、全海洋で4500万トンぐらいであったと考えられる。つまり、人間の4分の1くらいでしかない。…
 (人間は)穀類を大量に作るようになったおかげで人口を増大させることが可能になって、これほどの人間量になったのだが、生物界でこれほどの量になるとき、その種の異常大発生という表現をする。イナゴやネズミの異常大発生は、一地域での特異的なものだが、今回の人間は全地球での同時大発生であるところにより大きな異常さがある。…
 …先進国が、さわぎとなるはるか以前に、人口を増やして、さんざん植民したあげく、後進国に人口を抑制しろといっても、その身勝手は反感をつのらせるばかりである。
 教育レベルを高めた大衆を保有する先進国で、その大衆が自発的運動として産児を減らそうとする傾向が増大するとき、人口増加率は減るが、人口が減るまでには20年以上を必要とし、…。
 後進国は生活レベルを上げながら、人口の増加率を落とすような器用な方法はなく、教育レベルを上げる努力が基盤にないかぎり、人為的に人口を調整することはできない。…
 人間の異常発生がもとで農業という作物の異常発生を極度に進め、病害虫の異常発生を起こし、農薬の異常多用によって人間の寿命にはね返らせるという循環によって、人間の異常発生が抑圧される段階が次に起こることになる。
(引用ここまで)

 西丸氏は、増えすぎた世界人口を「人間の異常大発生」と表現しておられます。そのとおりですよね。グッピーの社会と同じ。人間も一定数以下になればこの闘争はやむ、ということになりましょうが、中東やアフリカなどでの内戦は、とてもじゃないが一定数以下になりそうになく、永久に終わりそうにありません。(なお、「農薬の異常多用によって人間の寿命にはね返らせるという循環」は、西丸氏の別の書「41歳寿命説」で述べられていますが、これは単なる警告であって、当の本人もそこまでのことは思ってみえなかったようです。)
 日本社会においても、ますます大都市への人口集中、つまり「人間の異常大発生」によって、「適量の人数よりもはるかに多数が一定空間に生息すると、共同生活ができず、ぶつかりあってお互いにいらいらしてカラカラの世相となる。」という現実があります。
 それに輪をかけているのがSNSで、これが人々の生活に深く入り込み、人間関係をより複雑化し、ぶつかりあってお互いにいらいらさせているようでもあります。
 日本における「人間の異常大発生」の状態は永久に終わりをつげないでしょうから、日本人の精神疲労も相当なものになりましょう。
 これからの世の中、日本の王様たちが幸せに生きていくためには、いったん王様を止め、SNSを全部切ってしまい、過疎地へ逃げ込んで自給自足の生活でもするしかなくなってきたようです。そこまでのことはなかなか無理な相談ですが、少なくとも高度科学技術文明に振り回されるのではなく、それを最小限に上手に使いこなす、そうした生活を目指すしかないでしょうね。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
5品思い出す。うち1品は別のもの。1品はなし。3/6で50点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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9.4 科学技術の大発展がもたらすもの(その5) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「科学技術の大発展がもたらすもの」第1回は「世の中便利になれば余暇時間が増す?」、第2回「情報の洪水」、第3回は「タケコプターの時代は来るか」、第4回は「医療は進歩するか」について書いたが、今回は「食糧資源はどうなるか」と題し、思いのままを綴ることとする。

食糧資源はどうなるか
 動物という生き物は、植物か他の動物を食べないことには生きていけない。そして、動物は、一時的に数が減っても、生息限度いっぱいいっぱいまで直ぐに生息数を増やしてしまう。生息数の限界は、メスが栄養不良で妊娠できない状態とイコールとなる。
 人間に関しては、古代文明が開化して以来、ずっと異常増殖してきている。人間はその人口圧により、自らの努力によって食糧を人為的に増産し続け、生息数を大幅に増やしてきた。しかしながら、食糧が十分に確保できたためしはなく、人類は古代文明が開化して以来、ずっと飢餓との戦いで明け暮れている。
 古来、世界的な戦争、それは大量殺戮と略奪であるが、これは世界的な食糧危機が訪れたときと一致し、いずれも寒冷化が原因している。寒くなれば、農産物の出来が悪くなるのであり、家畜も数を減らすのであり、餓死する者が当然に出てくるからである。
 近年の人類の異常増殖はアフリカなど低開発国で著しい。これは、先進国の食糧援助と医療支援が原因だ。この2つの“人道支援”でもって、より悲惨な状態を醸し出していると言っていい。高温多湿な地域にあっては、植物資源は豊富にあり、その分人口密度は高くなり、感染症(風土病)が蔓延し、幼児は貧栄養と免疫力のなさで死亡率は極端に高くなり、それでもって人口調節がなされてきたのであるが、ユニセフのテレビCMのようなことをやっていれば、幼児死亡率が大幅に低下し、人口爆発を起こし、より悲惨な局地戦争(人為的な手当たり次第の口減らし)を招くしかないのである。
 高度に文明化した先進国では人口は減少傾向にある。その原因は、子息に高等教育を付けさせるには金がかかり、少子化するしかないからと言われるが、これはそうではなく、原因は別にあるのだが、それはさておき、高度文明社会になれば人口増加が止まるのは事実であり、アフリカをはじめとする低開発国が全て先進国の仲間入りせねば、人類の異常増殖は止まらない。
 その抜本的解決法は「教育支援」であり、まずは子ども全員が初等教育を受けられる体制を敷くべく各種支援に積極的に乗り出し、次に、希望する若者には皆、高等教育を受けられる体制を構築するべく支援を惜しまないことにある。ユニセフの“人道支援”は止めて「教育支援」に切り替えるべきであり、食糧問題と医療問題は低開発国各国の自力で対処させるべきである。
 こんなことは、とっくに欧米各国は知っているのであるが、低開発国が内戦や隣の国と紛争を起こし続けているほうが(いつまでも低開発国にとどまり続けているほうが)何かと都合がいいから、紛争の種を摘まないように“人道支援”を続けているのである。日本人とは違った善悪の価値観の相違がここにある。日本政府高官も、このことを知っていながら、対米従属からして、“人道支援”から「教育支援」への変換はできないでいる。戦前において、我が日本が併合した台湾と朝鮮に対して、まず取った最大の施策は「初等教育の充実」であったことを思い起こしてほしい。 

 話が随分と横道に逸れてしまったが、人類の異常増殖は残念ながら将来的にも容易には止みそうにない。ずっと食糧危機問題は懸案課題となり続けるだろう。
 今の地球は幾分か温暖化の傾向にあるようだ。世間で騒がれているほどに温暖化はしていないのが現実のようだが、歴史時代(過去2千年余)を振り返ってみると、温暖化・寒冷化は、数十年ないし百~2百年ごとに不規則的に繰り返してきている。現在の温暖化傾向は数十年続いているから、何年もしないうちに寒冷化するかもしれないし、近い将来必ずそうなると覚悟した方がいい。
 寒冷化したらとんでもない食糧危機となろうから、この問題の解決法が見つかるまでは、ドンドン化石燃料を焚いてCo2をバンバン大気中に出しつづけ、地球を暖め続けねばいかんのである。もっとも、そうしたところで、どれだけも効果はなかろうが。
 だがしかし、メタンの温室効果は二酸化炭素の10倍、フロンガスは1万倍というから、そうした物質を大気中に大量放出して寒冷化を乗り切る技術が開発されるかもしれないし、ぜひそうあってほしいところである。

 これまた脇道に外れてしまった。
 さて、本題の食糧資源の拡大であるが、地球上の農耕に適するところは既に開拓済みといっていい。穀倉地帯などは元々は全部森林であった。平坦地の森林を切り開いて農地にしたのであり、もはやそうした土地はほとんど残っていないのである。
 そうしたことから、穀類・豆類は今以上の生産を上げることは事実上不可能だ。もっとも、遺伝子組み換えを行なっての増産はある程度可能であり、耐寒性の強い品種も開発され、どれだけかは寒冷化による減産にブレーキがかけられよう。もっとも、世界的に寒冷化対応の動きが出てこないことには、事が進まないが。
 なお、寒冷地に適した穀類がある。米や麦が育たなくても「キノア(キヌア)」であれば育つ。南米アンデスで自生しているホウレンソウの仲間で、大粒の種がたわわに実る。数十年前、地球の寒冷化対策が真剣に考えられた頃、日本でも試験栽培され、大きな実績を上げている。
 野菜については、その付加価値からして、将来的には工場生産が可能となろう。野菜は畑を必要としないのである。今、軌道に乗っているのはモヤシとキノコぐらいのものだが、政策的に初期投資を補助すれば大量生産が可能で、これは天候に左右されず、今現在の需要の何倍も生産可能となる。
 畜産については、豚や鶏は人間の食糧とバッティングし、特に豚は忌み嫌われる。人間と豚の食糧は全く同じだし、飼育するのに水をけっこう使用するから、乾燥地帯で誕生したイスラム教では“豚は食うな”という厳しい戒律を付している。牛はその点違うのだが、牧草がそうそう手に入らないから一部人間と同じ食糧を使っている。文明が高度化し、豊かになると肉食になる傾向が強くなり、食肉需要はますます高まり、穀類・豆類が畜産に回される割合が増えてくる。現在、既にその傾向がある。
 これを解消するには「人口肉」しかなく、数十年前から研究されているが、近年、この研究が加速した。筋細胞の培養による筋肉製造であり、工業生産による食肉供給である。やがて、これは実現するだろう。原料となるアミノ酸なども工業生産が可能であり、人間の食糧とバッティングしない。
 魚はどうであろう。現在、一部養殖が行われているが、それは高級魚についてであり、その餌は廉価な魚を加工したものだから、養殖が大幅に増えても、捕獲する魚の総量は変わらない。また、世界的に魚を食う文化が広まりつつあり、海洋食糧資源が枯渇する傾向にある。
 本格的な食糧危機となった場合、食物連鎖の上位にある魚(クジラはじめ海洋哺乳類を含む)を一網打尽にすれば、人間の口に入る海洋食糧資源は大幅に増えよう。捕獲対象外となるのはヒゲクジラ(動物性プランクトンを常食)とハクジラのうち深海のイカをもっぱら食べるマッコウクジラやハナゴンドウなどとなる。マグロも食物連鎖の上位にあるから天然物は絶滅させ、養殖魚だけでの供給になる。白熊が困るであろうが、アザラシも絶滅させる対象となる。
 随分と絶滅種がでてくるが、寒冷化の危機を乗り切るには、環境保護などど言っておれないのである。なお、生息数は少ないがラッコも贅沢に貝類をむさぼっているから、絶滅させるべき動物である。
 ついでながら、シシャモは日本人が食べる程度のものであるが、子持ちシシャモしか利用されない。その昔、オスのシシャモを食べたことがあるのだが、オスのほうがうまい。食糧難となれば、オスのほうも当然に食用となる。そろそろオスのシシャモが市場に出てくれないかなあ、小生だったら子持ちよりもオスのシシャモを買うのだが。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
4日前を思い出す。0点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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