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5.30 我が部落「三宅」周辺はいつも歴史の中心にあったようで興味深い [学び]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 小生が住んでいる部落は「三宅」という。「三宅」は全国各地にあるが、日本書紀に登場する「屯倉」であり、古事記には「三宅」と記されていることもある。ついでながら、小生の苗字も「三宅」であるが、これは明治8年の平民苗字必称令布告に伴い、我が一族郎党にたぶん寺の住職からつけてもらったのだろう。
 
 ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。
 と、ウイキペディアにある。

 戦国時代の途中までは、我が三宅地区のすぐ北に隣接して木曽川(現:境川)の本流が流れており、ヤマト政権の直轄地から上がってくる米の積出港になっていたに違いない。
 次代が下って平安時代末期には、長森庄(現:岐阜市長森)地頭の渋谷金王丸が長森城(現:岐阜市切通)を築城したと伝わる。ここは、我が三宅地区から約2km北西にあり、当時の木曽川(現:境川)本流の対岸に当たる。室町時代になると、美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡(現:瑞浪市)から、長森城に移り、城郭として整備し、土岐氏が城主となった。けっこう栄えたようである。そして、その後、土岐氏が美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となって、手狭となった長森城に代わり、1353年に川手城を築城する。ここは我が三宅地区から約3km西にあり、たいそう栄えたようである。特に、1467年、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住し、これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)、東の川手と言われたほどである。
 これもウイキペディアにかように書かれている。

 その先は、戦国時代になるが、土岐市は没落し、代わったて斎藤道三が美濃の国を治め、金華山の山頂に稲葉山城を構えた。後に織田信長が居城とした岐阜城である。ここは我が三宅地区から約4km北にある。
 こうして、当地周辺は、太古の昔から、日本の中心地とまでは言わないが、主要な一大拠点として有り続けた。いつも歴史の中心にあったようで興味深い。

 もっとも、江戸時代になると、「美濃を制する者は日本を制する」と恐れられ、決して人材が育たないように、美濃の土地はモザイク状に細かく分割され、せいぜい3万石の小大名が2~3置かれる他は幕府の直轄地(一部は尾張藩の所領)か旗本の領地にされてしまった。唯一の例外は、天下分け目の関ケ原を監視する譜代大名、戸田家10万石(大垣市とその周辺)があっただけで、これもさほど大きくない藩である。
 そして、我が三宅地区は、輪中地帯の最北に当たり、江戸時代から明治にかけて木曽川(当地区の南2km)の氾濫で大水害も頻繁に起こり、決して栄えることはなかった。なんせ「美濃の堤は尾張の堤より3尺低かるべし」とされ、木曽川の氾濫はいつも美濃の国側であったから。尾張藩の木曽川堤は「御囲堤」と呼ばれたほどであり、尾張藩では水害は防がれ、いつも苦汁を飲ませられた美濃の国である。
 こうしたことから、岐阜県からは明治以降も優秀な人材は輩出していない。例外は美濃地方にあっては戸田家10万石の大垣市と、飛騨地方の高山代官所(ここは広~い天領を統轄)の2か所だけである。憎き徳川家康め!である。いまだ苦しめられている、由緒ある我が「三宅」。残念でならない。

 ということになるが、長森城や川手城のことは、最近購入した本(岐阜弁)を読んで初めて知ったところである。いかに歴史を学んでこなかった、少々お恥ずかしい。

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。


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<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
単品+αにつき脳トレ休み

※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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