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10.24 宗教はどう変化するか [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「人類の未来がどうなるのか」について、とりとめないことを思うままに書いてきた。よって、けっこう思い違いがあったりして、とんでもない間違いがいくつもあるであろうが、ご容赦願いたい。
 今までに記事にしたのは、「人類は宇宙人になるんだろうか」4本、「ヒトの形質変化は将来どのように進むだろうか」5本、「科学技術の大発展がもたらすもの」6本、「生活様式はどう変わるか」5本である。まあ、よくもこんなに書いたものだと、自分でもあきれる。お付き合いいただしている読者の方々には誠に申し訳ない。
 これで終るかと思いきや、まだある。今回は「宗教はどう変化するか」である。これについては、その昔、論文を1本書こうかと思ったテーマであるが、宗教学の書物は難しすぎて小生の手には負えず、途中で棒を折ってしまった。そんなことから、ごく簡単に書くこととするが、中身が中身だけに、どうしても長くなる。その点、ご了承願いたい。

 この世の中、人の弱みに付け込む、代表的な商売が3つある。これは欧米で言われているもので、日本では前2つが一般的であるも、だんだん3つになってこよう。それは、医者と坊主と弁護士だ。人の病気、人の死、人同士のトラブル、こうした弱みに付け込んで儲けているのである。
 こうしたことから日本では彼らを皮肉って「医者の不養生・坊主の不信心」と言われるが、西欧では「弁護士が良い死に方をすることは稀だし、医者が健康に生きることも稀だ」と言われているそうな。
 この中で一番たちが悪いのは坊主であろう。西欧では「坊主の不信心」とは言わないが、いずれにしても、人の死だけではなく、人の心の弱さに付け込むのだから、全ての人がターゲットとにされてしまう、恐ろしい存在だ。

 人間だれしも、何か困った問題が生じて、とことん追いつめられるとなると、自力ではなんともならなくなってしまい、超越者にすがるしかない。超越者に救いを求める道を選ぶしかないのである。
 こうした場合、日本では通常「神様、仏様」である。それをもじって野球界では、その昔西鉄ライオンズの大エース稲尾和久の快投に対して「神様、仏様、稲尾様」という言葉ができたし、最近ではその第2弾として「神様、仏様、田中様」と相成った。「田中様」とは、田中将大投手のことで、楽天の監督だった野村克也氏が「 マー君、神の子、不思議な子。神様、仏様、田中様」と言ったのが有名になった。
 日本文化では、こうして今生きている人間も超越者的存在にされてしまうこともあるし、そうした方でとっくの昔に死んだ偉いお方も神様と同列になり、神社をこしらえて祀られる。逆に、本来の神様も全知全能ではなく、一部の特技しか発揮し得ない神様ばかりで、神は一人ではなくて八百万の神となる。海の神、山の神、水の神、火の神から始まって、イワシの頭(もっぱら皮肉やからかいの例にされるが、当初はちゃんと魔よけとしての御利益があった)まで神となるのである。

 宗教とはなんぞや、その定義は定まったものはない。ある教団を捉えて、外から見ると宗教団体と考えられるが、教団内部からは宗教ではないと主張するものもある。儒教だって、そのものは思想であるが、宗教に分類されることもある。一番惑わされるのは仏教である。その本質は自らの力で悟りの境地に達する方法論を示しているにすぎず、それは学問の一種であり、あえて言えば哲学であろう。儒教だって仏教だって、それを極めようとする者は、ごく一部のエリート層であって、庶民とは別世界の話であり、無関係となる。
 仏教には様々な宗派があるが、浄土宗や浄土真宗は、つとめて大衆的であり、「南無阿弥陀仏」と7かな文字(短縮してナムアミダブの6文字、あるいはナマンダブ5文字、さらにはナマンダの4文字)の呪文を繰り返し唱えれば救われるとなるから、仏教とはいったいなんぞや、そして宗教とはいったいなんぞや、となってしまう。
 ここのところは、小難しいことを言う学者や坊主は横においといて、一般信者つまり庶民の受け止め方で宗教を再定義したほうがいい。なぜならば、信者となるのは庶民が大多数であり、単純明快でなければ意味をなさない。

 人は何かにすがりたい、何かに救いを求めたい、そしてまた、何かに御利益を求めたい。その程度は大小があろうが、毎日その何かに少しはアクセスするだろう。
 その何かは何かと言えば、日本ではあまたの神仏であり、世界の多くの地域では唯一神である。それらに対して、ただひたすら祈るのである。ただし、ゴリゴリの共産主義国家においては宗教は禁じられているから、神に祈ることは許されないが、こっそりと自分が信ずるものに祈りをささげているに違いない。
 こうしてみると、宗教という何だか高尚な小難しいものについて、あれこれ言うより、単なる「信仰」が宗教であると言い切ってしまったほうが、スッキリする。
 日本人は、折々に、困り切ったらお百度参りを、あまたの神仏を自由選択して、その都度それに祈りを捧げれば、それでよいのである。これでもって、神仏にすがれるのであり、救いが求められるのであり、場合によってはご利益が授かろうというものだ。これで心が落ち着く。そう、人は心の安寧が求められれば対象は何でもいいのである。
 ここまで言い切ってしまうと、いかにも低俗すぎる感がする。でも、現代人の信仰はそんなところだ。小生はそれでいいと思う。

 少々付け加えるとすれば、その昔の日本人はもうちょっと高尚であった。
 大自然に対して畏れを抱いていたのである。人間の力の及ばぬ大自然の振る舞いに対して、決して抗う(あらがう)ことなく真摯に受け入れる態度を取った。例えば、山の神。大雨が降っても一気に鉄砲水が来るではなく、長期間雨が降らなくても川にはいつも水が流れてきて、農作物を育ててくれる。貯水ダムがなくても、どこからともなく水が流れてきて、水が常時手に入るのである。これに感謝せずにはいられないじゃないか。山の麓に社を建て、山の神にたびたび感謝する。まれに大雨で山崩れが起き、田畑が土砂で埋まることがある。でも、これはやむを得ない。山の神も懸命に山の斜面を支えてくださっただろうが、山の神の力が及ばないことも当然ある。山の神のその懸命な御尽力に感謝の言葉を捧げ、お祈りしよう。こうした態度を取ったのではなかろうか。
 もう少し付け加えれば、山の木を使いたいからと、やたらめったら伐採すると、ちょっとした雨でも山が崩れる。木を切りすぎたために、山の神がお怒りになったと人々は考える。そこで、木を切ったら、当然に苗木を植林するという行動を人々は取った。
 また、森の木々にも神が宿ると人々は考え、大木を伐採するときには、その木に感謝の言葉を捧げ、切らせてもらうという態度を取り、こうしたことからも植林はせねばならないことになる。
 さて、この植林であるが、明治初期に、苗木を植える絵を欧米人が見て、なんでこんなことを日本人がするのか理解できなかったという。彼らには大自然というものは収奪の対象であって、山を守るなどという観念は全く持っていなかったのである。山の神も森の木々の神も全然存在しない、唯一神しかいない彼の宗教では、当時はそうした考えしか湧かなかったのであろう。
 現代の日本においても、山の神や森の木々の神もいなくなってしまった感がする。森の木を切っても植林する手間がないからとほったらかしにするし、山崩れが起きれば放置していた行政の責任だとわめく。そこで、行政は山が抜けないよう砂防ダムなどを作ればいいじゃないかと土木工事に忙しい。山には林道や作業道が作られ、そればかりかスーパー林道だとの名目で観光道路を作ったりして山を荒らしまわる。明治初期に苗木を植える絵を描いた人が、タイムマシーンでやってきて、その有様を見たら腰を抜かすであろう。山の神も森の木々の神も殺されてしまった、と。

 悲しいかな、こうして日本においても、実質上の一神教化が進みつつある。あまたの新興宗教がそうだ。うちの神様以外には信じちゃいけない、うちの仏さましか信じちゃいけない、いや神や仏じゃなくてこの経典しか信じちゃいけない、などなど唯一これのみを信じなさいという排他的なもの。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とまるで一緒だ。
 要するに、すがり、救いを求め、そして御利益を授かる、そうした対象を1本に絞り込み、極めて単純明快な姿に仕立てている。信者にとって、これほど有り難いことはない。加えて儀式は単純そのもの。すぐ覚わる。有り難や、有り難や、これで救われた、だ。
 しかし、後が怖い。高額なお布施を“自主的に”払わねばならない。場合によっては全財産を寄付するよう誘導される。さらには共同生活へと追いやられ、タダ働きさせられる。
 いい例がオウム真理教だが、新興宗教は往々にしてそうしたもんだ。キリスト教だって同類である。その初期は共同生活をしていた、ユダヤ教の新派であるからして新興宗教に違いはないのである。麻原彰晃がもうちょっと上手に立ち回っていたら、今頃イエス様のようになっていたやも知れぬ。

 さて、将来「宗教はどう変化するか」であるが、ポイントとなるのは信仰であるから、「信仰はどう変化するか」ということになるが、過去を少々振り返ってみよう。
 一番最初に唯一神信仰となったユダヤ人のパレスチナの地でも、その昔は八百万の神を信仰していたようだが、山の神も森の木々の神も早々に殺されてしまい、だんだん神の数が減って、救済神ただ一つになり、一神教が誕生した。周辺地域も同様な傾向を示す。
 その後、2千数百年以上経つが、神殺しは進み、次第に一神教が広がりを見せてきている。けっして多神教化する逆方向の動きはない。不可逆的に一神教化が進む。これは必然である。なんせ単純明快で、かつ、他の神は信じちゃいかん、と強制されるからだ。
 先に言ったように日本でも、これは着実に進む。すでに知識人の多くにあっては、自らは無神論者と主張するも実質上は一神教徒になっている。それは、ユダヤ教を嫌ったユダヤ人のアインシュタインと同じ立場だ。アインシュタインは「唯一の神という超自然的ではないところの、大自然や宇宙あるいはそれらの全ての仕組みを支配する法則性、つまり真理と同義語の神」、つまり汎神論の神の信仰を彼は持っていたのである。
 このことについては、鈴木秀夫(地理学・気象学・宗教学:東京大学名誉教授:故人)が1976年の著した「超越者と風土」のなかで次のように書かれている。
 日本の無神論者の多くは、歴史の流れを必然と認め、世界に法則が充満していると考え、それによってほとんど一神教の世界に生きているのである。…さらに注目されるのは、多くの人が、手紙の末尾で、「御健康をお祈り」し、結婚式の祝詞を「新家庭の幸福と発展をお祈りして」終ることで、もし、祈りをささげる一神または多神を持たないとすれば、その祈りは呪術にほかならず、呪術とは、言葉の持つ力を神とするか、自分を神にすることで、無神論の世界ではない。
(引用ここまで)
 かように日本人も一神教化しているのであり、それに加えて、キリスト教など、既存の明確な唯一神を信ずる者が日本には極めて少ないので、呪術がまかり通り、自分を神とする教祖がいくらでも湧いて出るのであり、これは、また、それにブレーキを掛ける明確な唯一神が日本には存在し得ないからでもあろう。

 もう一つ、外国から日本人は不信心と思わせる宗教文化がある。日本人はめったに寺院、神社に出かけない。なぜ、そうなのかについて、鈴木秀夫の同著から引用しよう。
 ソーファーは、キリスト教とは集まる信仰形態を持つもので、日本における仏教は、集まらない在家仏教であったという。そして日本にキリスト教が接した時に、キリスト教においておこったことが、集まりを中心としない無教会主義の出現であり…。(ソーファー「宗教地理学」)
 人煙まれな砂漠[小生の注:ユダヤ教はじめ一神教が発生した地域は砂漠的気候の地域であった]にあっては、人は集まることが喜びであり、人口稠密な谷底平野に住む日本人にとっては、人から離れるところに安らぎがあるのだろう。在家祭壇、在家祈祷が可能であったのも、僧侶が巡回し得るほど家々の距離が短かったからである。
 日本のキリスト教会は、在籍信者が日曜日の礼拝に集まらないことを憂えているが、これは、この伝統にもとづくものと考えられる。
 集まりを中心とせず、したがって集まりを維持するに必要な教会制度を否定し、無教会主義を主張した内村鑑三は、その意味において、彼がそうであろうと欲したごとく、極めて日本的キリスト教理解であったといえる。
(引用ここまで)

 日本人の既存宗教離れは急速に進んでいる。小生は、寺総代や神社総代を何度もやってきたが、1年に幾度もない宗教行事の参拝者は世代交代が進まず、じりじりと年々減ってきているし、神社にいたっては宗教行事の一般参拝者はずっとゼロだ。お寺も神社も、その維持管理にけっこう金が要るが、お布施なり寄付なり、労働奉仕などの門徒や氏子の負担は大きく、これがいつまで持つか、先は暗い。
 坊主は不信心、といっても先に言ったように呪術の世界にいるか、汎神論の世界にいるのだろうが、決してその宗派を信心する心境にはありそうになく、単なる稼業として紙切れの“福沢諭吉”を唯一神として崇めているだけであろう。宮司も同類である。
 この先、残り得る社寺は経営基盤が安定している(境内地以外に土地を所有し、賃貸収入がある)ところだけとなろう。坊主は宗教事業ではなく不動産事業で食っていく形となる。なんで、社寺がこんなにも土地を持っているのか。その昔、あくどい坊主や宮司がいたのではなかろうか。田畑宅地を寄進させたとしか思えないのである。小生が既存宗教を嫌う大きな原因として、これがある。今どきの新興宗教とおんなじだから。
 人の「こころ」の弱みに付け込んで脅し、信者から財産をまきあげる。ああいやだ、いやだ。まあ、人間というものは、煩悩の塊なんだから、これが正常なのだろうが。
 
 さーて、そこでどうする、特に若い方はこれから。「宗教はどう変化するか」は、若い方の出方次第となる。1995年の地下鉄サリン事件からもう25年経っているが、新興宗教と言えばオウム真理教という強烈なイメージがつきまとい、数多く新興宗教が生まれ出ても、警戒されてさほどの信者は集め得ないであろう。
 悩み多き若者は多い。どうするか。
 ひとつ考えられるのは、「見方、生き方を変える思想」ではなかろうか。もうお亡くなりになったが小林正観さんが一番有名であろう。この類の人はあまたいる。小生が一番びっくりこいたのは五日市剛さん(もう56歳になっておられるが)である。
 こうした方々はたいてい神がかっているが、“神ってる”は2016年に広島カープの鈴木誠也外野手を評しての言葉でもあり、ここで感ずる神と人間との距離感はさほどなく、抵抗感はさほどなかろう。
 しかし、とことん追いつめられたら、自分の心の持ちようだけでは(つまり自力では)解決しないであろう。となれば2つ目は呪術だ。まあ、これも自力の範疇には入ろうが。
 なお、汎神論という一神教の信者にあっては決して救われない。こんなものを信じているのは、自分の生活に余裕があって、救いなど求めなくていい状態にこころがあるからにすぎない。たとえば、知識人が何か大きなへまをやって社会的信用を失って失職したら、食っていけなくなり、そうなったら何かにすがるしかなくなる。彼が信じていた汎神論の神は冷たく彼を突き放すばかりであり、自殺するしかなかろう。

 よくよく考えてみるに、釈迦も「見方、生き方を変える思想」を説いたのだし、(よく知らないが、釈迦は、何ともならなくなったら手を合わせて何でもいいから祈れとでも言ったのではなかろうか。その時点では仏様はなかったのだから。)、つまり、仏教もその出発点に立ち返ってみれば、今の日本とおんなじだろう。
 庶民的立場に立ってものを言うと、こういうことになる。
 庶民が、こころに少しは余裕があれば生き方の思想に触れて立ち直ればいいのだし、とことん追いつめられてどうしようもなくなったら単純明快な何かにひたすらすがるしか術はないのである。
 その点、江戸時代前期に全国を行脚した円空さんは立派なお坊さんだ。病気で死にそうになっている人、飢餓で死にそうになっている人、借金で首が回らなくなっている人、などなど、もうどうしようもない状態に置かれている人々に、それぞれに適した仏像を、そうした人々の前で彫り上げて与えたという。たぶんそのとき、何か癒しの言葉も投げかけたであろう。その仏像の数はなんと12万体というからすごい。30年以上の行脚だから毎日10体彫った計算になる。というか、全国各地で毎日毎日10体は彫っていたという話から、12万体という数になるのであろうが。
 つとめて庶民的であった生臭坊主の親鸞は、どうしようもなくなったら単に南無阿弥陀仏と唱えりゃええ、と言っただけであり、とてもじゃないが、円空さんの足元にも及ばぬケチな存在だ。小生にはそう思われてしかたない。もっとも親鸞が大衆仏教を作り上げたことには小生も評価を惜しまないが、その後がいかん。親鸞は生臭坊主であったから、それまでの僧侶のしきたりを破って妻帯者となり、子を作り、彼が立ち上げた浄土真宗という教団のトップの座を世襲にしてしまった。これじゃあ宗派が大きく腐敗するに決まっておるではないか。
 で、結論は?となるが、小生はここでギブアップ。まあ、葬式仏教と言われて久しいが、最近は坊主を呼ばない葬式が流行り出したから、これは大変望ましいことだと評価しておこう。小生が死んだときも、その方式に決めている。

 本日はここまで。

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
単品につき脳トレ休み

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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