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1.11 ウイルスという生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 「人類の未来がどうなるのか」については、2、3か月前に記事を書き終わったが、これと直接の関係はないものの、生き物の本質を捉えるに当たって、一つ気になることが出てきたので、12月25日以来、少しずつ書き進め、行きつ戻りつして今日になって一応の結論に達したので、ここに書き留めておくことにしよう。

 「ウイルスという生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する」のではなかろうかと思えるようになった。
 なお、「絡合」とは、国語辞典によれば「互いにからむこと。もつれ合うこと。」
 ウイルスという極小の生物は、電子顕微鏡で見れば、個々バラバラな存在である。新型コロナウイルスとて、くしゃみ1発10万個がまき散らされ、たった1個で浮遊することもあり、それが近接した人にうつって増殖することもあり得るのだから。人間と同様に、個々バラバラに生きていけて、独自行動を取ることができる、そう思わせられる。
 しかし、今般、詳しく調べられている新型コロナウイルスの変異を見ていると、なんか変である。たしかにコロナウイルスは、DNA型(2本の紐がくっついて1本になっている)ではなく、RNA型(1本の紐だけ)であるゆえ、変異しやすい。どんどん変異しているようであり、当初の武漢型やそのすぐ後の欧州型は姿を消し、欧州では今や高感染性の英国型になりつつある様相を示している。
 これはこれでいい。なんせ変異しやすいRNA型であるゆえ。しかし、なぜ武漢型が消えてしまったり、英国型が幅を利かすようになったりしたのか。素朴な疑問が湧く。
 ウイルスが個々バラバラに変異するのであれば(そう考えられている)、今頃は日本型があったり、そればかりではなく、東京型や大阪型、いやいや東京型も千代田型や新宿型、さらには、ウイルスの大きさからすると、これでは広すぎるから、霞が関型や日比谷型ができて、わりと狭い地域ごとにそれぞれの変異株で占められるように変化したっていい。
 新型コロナウイルスが拡散しだして、もう1年も経とうとするのだから、世界中が変異株だらけで、世界には何万種類もの変異株がうごめいていてもいい。
 それが、どうだ。武漢型とか英国型とかといった特定の型が中国とか欧州とかいった、ウイルスの立場から見るに、非常に広大な範囲が同じ型で一時占められ、やがて1つの変異株が世界を制覇し、いくばくもせずまた新たな他の変異株が取って代わるであろうというのはどういうことか。
 増殖力の大小でもってそういう事態になる、とは考えられない。もしそうだとすると、際限なく増殖力の強い変異株がのさばっていくことになるのだが、現実は全く違う。
 あるいは、ダーウィン進化論の論理でもって、ウイルス間における相対的に強い変異株がそれまでの弱い変異株を一気に淘汰したとも考えられない。同一種のウイルス間での相互殺戮なんて聞いたことがない。そもそも、ダーウィン進化論の同一種間における「生存競争・弱肉強食・適者生存・自然淘汰」の原理なるものは根本的に間違っているのだし。そんなのは、産業革命以降の人間社会の経済活動に適用される論理に過ぎないのである。生物界においては、これは日本人的発想であるが、同一種間では基本的に正反対の「相互扶助・弱者救済・共存共栄・敗者復活」の原理で成り立っており、これが同一種の進化と繁栄を支えているのである。
 まれに生ずるところの同一種間での相互殺戮が行われるケースは、その種の異常大発生のときであり、端的な例を挙げるとすると、古代文明発生以降から今日までのヒトが異常大発生し続けている状態にあるときに限られるのである。ウイルスとて生物であり、相互扶助でもって繁栄を図りたいに決まっている。小生はそう思う。
 それにしても、ウイルス変異株の大発生、これを進化と言ってもいいだろうが、実に不思議な現象である。
 たしかに、遺伝子配列を総洗いすれば、ウイルスごとに1つや2つは塩基に違いがあろうが、これはヒトとて同様で同じ顔のヒトが2人といないのと同じである。
 でも、型と分類されるほどに違いがある変異株に一時地球表面上の大半が覆い尽くされるというのは、ウイルス遺伝子の特定部分のかなりの数の塩基配列が同じように異なったものに変異したのであろうから、どうやって、ウイルス皆がそのような姿に変わり得たのか、全くもって解せないのである。
 定説となっている「ウイルスの変異株は突然変異によって起こる」という考えは間違っているのではなかろうか。突然変異はショウジョウバエの実験で有名である。ショウジョウバエに放射線を浴びせてランダムに遺伝子の一部に変異を起こさせるのだが、それによって発生したショウジョウバエは全部奇形であって、発生した個体はまともに生存できず、自然界に放置すればあっという間に死に絶える。
 それと同様に、ウイルスがヒトの体内で活性酸素などでもってウイルスの遺伝子の一部にランダムに変異が起きたとしても、それは奇形ではなかろうか。もっとも奇形であっても、ショウジョウバエとは違って器官の奇形ではないから、生存する上において支障はさほどのことではないかもしれないが。また、奇跡的に生存に有利な突然変異が誰かのヒトの体内でウイルス1個に起きるかもしれない。それがアダムとなって数を増やしていく。これは考えられないことはない。
 でも、そうなると、先に言ったようにウイルスは世界中に何万種もの変異株が同時に存在していいことになってしまうが、そうした事実はないから、これはおかしい。
 ここは、ダーウィンの進化論とは別の考え方を持ち出してこなければならない。その一つが今西錦司による「主体性の進化論」であり、「1個体の変異からではなく、その種全体の一様な変異により種は進化する」という考え方である。 
 ウイルス進化の状況を客観的に眺めてみるに、例えば武漢で、例えば英国で、ウイルスみんな揃って同じ変異をしたとしか言えないのである。そして、その変異株がやがて世界全体に広まっていくことになる。
 今西錦司が言う「その種全体の一様な変異により種は進化する」、ウイルスの変異株もこうしてできると考えるべきであろう。
 その変異は、どうやって起こるのだろうか。
 まず考えられるのが、ヒトの体内における爆発的な増殖過程である。ところが、ヒトの体内は全人類全く共通している。つまり、ウイルスにとっての自然環境は全く経時変化しないのであり、ヒトの体内という安定した自然環境が幾万年も続くなかで、それもウイルスにとって居心地がいい自然環境のなかで、どうやって進化が起こり得るのか、ということになってしまい、説明が付かない。
 となると、ウイルス感染した大勢のヒトから吐き出されて、空気中に浮遊している段階で変異すると考えるしかない。その自然環境はウイルスにとって過酷であり、ほとんど増殖できず、順次死に絶えていくしかない劣悪環境だ。
 生物の進化というものは、たいてい急激な劣悪環境にさらされたときに、その種全体の一様な変異によって起きるものであり、武漢の1月の空気という同一の劣悪環境なり、その約1年後の英国の12月の空気という武漢とは違う同一の劣悪環境の下で、その種全体の一様な変異が起きたと考えていいだろう。
 そうしたことから、先に書いたような東京型や大阪型はできるかもしれないが、千代田型や新宿型はできないし、ましてや霞が関型や日比谷型はあり得ない。
 ここまでのことは、まだ仮説の域を出ない(でも、小生には、これぞ法則であると思われる)が、今西錦司の「主体性の進化論」に基づくものであるも、でも、これではまだ説明できないことがある。
 武漢型なり英国型は、地球表面から見れば限られた狭い範囲の同一劣悪環境で一様な変異を生じさせるだけである。しかしながら、武漢型なり英国型が他の地域へあっという間に進出して、従前の型を急速に駆逐していく(ように見える)のはどうしてだろう。
 何かまだ知られていない仕組みがあって、それに基づいて従前の型が新たにできた型に置き換わる、というしかない。そうした仕組みがウイルス界に働いていて、あっという間に新たな変異株で地球表面が覆われるということになるのではないか。
 そこで、新たに仮説を立てるしかない。仮説の上に仮説を立てては、もはや論とは言えず、単なる物語となってしまうが、「主体性の進化論」は法則であると捉える小生ゆえ、ここはお許し願いたい。
 新たな仮説とは「絡合」である。「生き物は個々バラバラではなく、絡合して1生命体として存在する」というものである。
 その1例が、イワシなどの小魚の群。幾万匹もの小魚がまとまりのいい集団を形成し、さも1匹の巨大魚の姿で暮らしている。単細胞生物では、細胞性粘菌がその例になるが、数多くの粘菌が集合はするも融合せず、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して多細胞生物のような行動をする。こうした例は、非常に濃密に集合した形態を取って、個々の生物が相互関連性をいかんなく発揮させて生きている、つまり、絡合(「互いにからむこと。もつれ合うこと。」)した存在である。
 これは、あらゆる生物が大なり小なり持ち合わせているのではなかろうか。なんせ前に述べたとおり、生物界においては同一種間では基本的に「相互扶助・弱者救済・共存共栄・敗者復活」で成り立っており、同一種の繁栄を支えているのであるからして。
 そうしたことから、生物は、同一種間においては、集団の存在が個の存在を優越し、集団なくして個は存在せずの状態となり、個は集団の大勢の形質に自らの形質を近似させ、同化させようとする性向をもっているのではなかろうか。
 さすれば、ある地域(武漢なり英国)で「その種全体の一様な変異により種は進化する」という法則にしたがって、その地域で大半が特定の型に進化した変異株で満たされた状態になった後には、その新変異株が周辺地域に拡散するにつれて、旧来の変異株も自らすすんで新変異株に生まれ変わっていくという事態が生じて、世界中があっという間に新変異株に生まれ変わる、というふうになるのではないか。
 そして、その新変異株は、絡合でもって地球表面全体を覆いつくし、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになるのではなかろうか。
 じゃあ、個々のウイルス間でどのような情報通信が行われ、どうやって変異作用を働かせるかという難問にぶち当たるのであるが、全くもってこれは不明である。
 ただし、何らかのエネルギー作用が働いていることは確かであろう。植物にはヒトの感情を感知する能力を十分に備えているということは、植物の葉の電導率が近くにいるヒトの感情に左右されて即座に急激な上昇・低下することによって確かめられているし、植物と植物の間、さらには植物と動物の間でさえ、たえず情報通信が行われている証拠も数多く見つかっている。これは、何らかのエネルギー波(とでもいうべき未知のもの)による情報通信がまずあり、それをキャッチしての変異作用の発動という流れが生ずる、というしかないのではなかろうか。
 そうしたエネルギー波がウイルスにあってもよかろう。あらゆる生物は生命の危機に瀕するような急激な環境変化があったときには“死にとうない”と必死にもがくものであり、そのもがきのなかから何らかのエネルギー波が強く発せられ、それが個々の同種の生き物に相互関連性を持って共有され、つまり絡合し、歩調を取って生き残りを模索し、その種全体の一様な変異へと導かれるのではなかろうか。
 加えて、そのエネルギー波は近似する他種にも全地球上に働きかける性質を持つ。ウイルス干渉という現象である。インフルエンザウイルスで知られていることだが、A型(それも特定の変異株)が世界的に流行すると、他の変異株やB型は遠慮して流行しないのである。そのまた逆も当然にしてあり、例年そうしたことが繰り返される。そして、今般の新型コロナウイルスは、あまり近種ではないものの、一本鎖のRNAタイプという類似性を持つインフルエンザウイルスを見事に遠慮させてしまった。
 このウイルス干渉という現象をみたとき、ウイルスは絡合でもって地球表面全体を覆いつくし、あたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになるとしか言い得ないのではなかろうか。
 人間社会も、個々のヒトが単独では決して存在し得ず、全地球上のヒトが絡合でもってあたかも一つの生き物であるかのような集団を形成して存在することになると考えたいものである。現代人は個々人が強力な情報通信手段を幾つも持っているのであり、ヒト同士は強く影響し合って生きている。その相互関連性の糸は全地球上のヒトとヒトの間にびっしりと張り巡らされているのであり、絡合の最たるものだ。
 自分が宇宙人になったつもりで地球の外から地球表面を眺めてみたとき、人類は一つの生き物として集団を形成して存在している、なんとなくそのように見えてもくるから不思議なものである。半面、絡合という、あまりにも多くの(無数の)相互関連性の糸でがんじがらめにされてしまって、身動きが取れなくなり、個々人は孤独を欲することにもなるのだが、これは、生き物は絡合してしか存在し得ないことの裏返し現象ではなかろうか。
 生き物とは何か、生き物は全体としてどういう仕組みで生きているのか、あまりにも奥深すぎて真理にたどり着くことは到底不可能ではあるも、これを探訪するのは実に興味深く面白いものがある。
 いやーあ、たわいもないことで随分と長文になってしまった。読者の皆様には申し訳ない。だれも真面目に取り上げてくれない内容であり、無視されるであろうが、多少とも自分の頭の中が整理できた。それで十分だ。

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
3品思い出す。他に1品。3/4で75点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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