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8.26 科学技術の大発展がもたらすもの(その1) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 7月16日の日記に「新たな研究テーマに孤軍奮闘立ち向かおうとしている小生である。どんなテーマか? それは、人類の未来がどうなるのか、についてであるが、まだまだ頭の中で何かがもやもやしているだけといった状態」と書いた。
 テーマをもっと絞り込みたいし、絞り込まねば答えも出てこない。これは分かっているも、最初から特定の事項に絞り込むと、周りが見えなくなってしまうから、今の段階では最大限広く構えないと前へ進みそうにない。
 前回は「ヒトの形質変化は将来どのように進むだろうか」に関して、5回にわたって書いたが、今回から別のテーマ「科学技術の大発展がもたらすもの」と題して、思いのままを綴ることとする。

世の中便利になれば余暇時間が増す?
 昔は歩いて2時間かかったが、自転車が普及したら30分で行け、車が普及したら10分で行けるようになった。昔はそろばんで掛け算割り算をしていて答を出すのに随分と時間がかかったが、電卓が登場したらあっという間に答が出るようになったし、今ではそれらの集計は計算ソフトがあるから数値を打ち込むだけで瞬時に答が出る。このように、何もかもが極めて短時間に処理できるようになってしまった。
 と、なれば、労働時間は昔の半分、いや、そのまた半分以下で済んでいいはずだ。特に戦後は科学技術が大発展し、当初、日曜休み・土曜半ドンが週休2日となり、有給休暇や特別休暇が増えたりしたものの、年間労働時間が幾分か縮んだだけで、実に割りが合わない。もっとも、けっこう給料がアップし、欲しいものがあれこれ手に入るようにはなってきているが。
 労働の質という面で捉えると、昔は遠方へ出張すると1泊2日で行かせてもらえ、初日に仕事を半日で済ませ、翌日は物見遊山し、労働時間に余暇が含まれていた。外回りの営業なら午前と午後の各1回、喫茶店で30分は遊べたし、内勤でも時々喫茶店へ行けた。ということは、実質の労働時間に昔も今も差はないということになろうか。
 近年は残業規制がかかり出し、勤務時間中に大慌てでわき目もふらず仕事に没頭せねばならなくなったことであろう。やり残しの仕事があれば家に持って帰るなり、こっそり早出して始業前に片づけるとか、今のサラリーマンは何かと大変なことであろう。いずれにしても、とにかく仕事は気忙しくなったに違いない。
 たまに岐阜から名古屋に出かけるときに電車に乗るのだが、昔は居眠りをして体を休めている人が大半であったが、今はスマホをいじっている人を多く見かけ、居眠りしている人はほんと少ない。スマホで何をしているのかしらないが、ぼんやりしているなんて時間がもったいないとばかり、あれこれ情報を集めたり発信していることであろう。
 世の中、便利になればなるほど一日が小忙しくなる、これが現実のようだ。普通に考えれば、便利になれば何事も簡単に片づけられ、時間が余って余裕しゃくしゃくとなり、逆じゃねえかと思いたくなる。しかし、現実は違う。これはどうしたことか。

 もう50年近く前のことだが、経済学者のE.F.シューマッハーが1973年に次のように言った。「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。」と。1973年は、ちょうど小生が社会人になった年だ。もう、その時点でこれが言われていたのだが、この年から始まったサラリーマン生活21年は、上に書いたとおりであり、最初の頃は労働時間に遊びが入り、いたってのんびり仕事ができた。しかし、年を重ねるにつれてだんだん責任ある地位に昇っていき、仕事の質・量ともに上がったがゆえに、残業や仕事の持ち帰りをせざるを得なくなり、稼ぎが増えれば余暇が減っていくと思っていたが、どうやらそれだけではなさそうだ。
 なお、サラリーマンを中途退職して稼業に就いてから26年になるが、自営業ともなると、これはまたちょっと違ってくる。自分で自分にどれだけノルマを掛けるかで忙しさが違ってきて、最初の頃はたっぷりノルマを掛け、“月月火水木金金”の仕事また仕事で余暇なんぞは盆と正月ぐらいのものであった。でも、高齢者となってしばらくしてノルマなしにしたから、今では余暇は有り余るほどにあり、好きな百姓に没頭もできる。このように自営業だと、余暇は自在に生み出せる傾向にある。

 しかし、世の中はなぜか小忙しい。ゆったりと時間が流れることはなくなった。
 地域や同業者との付き合いは、何かの行事の後でいっぱい飲むことであるが、昔のように何軒もハシゴして午前様になるようなことは全くなく、二次会とてないこともある。そして回数も減った。よって、飲み会も時間を気にしてあわただしく情報交換せねばならなくなったし、酒を注ぎにゆっくり一回りしようなら、もうお開きの時間が来てしまう。加えて、地域のちょっとした行事の後は、皆で喫茶店に行ったり、簡単な食事をしたりしたものだが、こうしたものはどんどん減り、行事が済めば即解散という傾向にある。
 これは、合理的にいこうという考えのもとに、無駄に過ごす半分仕事・半分余暇という、どっちつかずの時間は削除しようということになったからだろう。

 となれば、家に帰って過ごす時間が増えようというものだし、休日丸一日フリーということも増えてよかろう。つまり、余暇に回せる時間が大幅に増える、ということになってしかるべきだ。だが、世の中はシューマッハー理論が今でも生きている感がする。
 各種統計を見てみたが、「余暇」の定義の仕方がまちまちであり、また、睡眠時間を削って何かをする(それは労働であったり余暇活動であったりする)こともあり、「余裕」時間といったものは統計上算出するのは難しそうだ。なお、仕事をばりばりせねばならぬ世代とリタイアした後の老後ではまるで違うから、これは分けて考えねばならぬ。
 よって、定量的には求めにくく、ここは定性的に判断するしかなかろう。
 ただし、労働時間については「余暇」(あるいは「余裕」)時間と相反するから、これについては簡単に触れておこう。ホワイトカラーは労働時間が増え、ブルーカラーは労働時間が減ってきている。また、高学歴者は労働時間が増え、ブルーカラーは労働時間が減ってきている。平日は全般に労働時間が増えてきている。昔に比べ、今はこうした傾向にあるというものだ。
 こうしたことから、業種・学歴による差が出てくるから、一概に言えないものの、世の中の小忙しさから解放される「余裕のひととき」というものが、どれくらい作り出せるか、これが重要なものとなろう。
 仕事でぐったり疲れ、単に体を休める時間や睡眠時間というものは「余裕のひととき」とは言えず、「余暇」にはならない。テレビに見入るのではなく、横になってテレビを単に眺めているだけで居眠りしたりするという時間も体を休める時間に入ろう。興味を引くテレビを真剣に見られて、これが初めて「余裕のひととき」であり「余暇」であろう。
 今日は定時に帰れた。時間があるから、転職を考えて何か資格を取るための勉強をしようというのは「労働」であり、趣味の本を読むのは「余暇」となる。
 こうしてみると、平日はたいして「余暇」時間はありそうにない。
 休日はどうだろう。遅くまで寝ていたり、昼寝するのは、労働で疲れた心身を休めるためであり、決して「余暇」活動ではない。「余裕のひととき」とは言いいがたいからである。買い物だってショッピングといった感じのものは「余暇」に入ろうが、必需品の買い出しといった性格のものは「労働」以外の何物でもない。買わねばならぬ物をあちこち見て回り、冷や汗たらたら財布と相談してぎりぎりの物を決めるという頭脳労働、やっと買い物が終わり、グッタリ疲れて家で一休み、といったものは全て「労働」である。
 いずれにしても、休日に「余裕のひととき」がどれだけ味わえるか、これが余暇の大小となろう。昔と今、この「余裕のひととき」が増えたか減ったかである。
 サラリーマンの場合、やはり「余裕のひととき」は減ってきているのではなかろうか。
 
 一方、専業主婦はどうだろう。炊事・洗濯・掃除といった家事労働は電化製品が次から次へと登場し、随分と楽になった(男はそれを買うために仕事で稼がねばならず、労働時間はその分だけ減らない)。また、面倒な調理をせずとも、おいしい総菜がスーパーでもコンビニでも手に入るし、衣類については直ぐに買い換え、今やミシンの出番はなくなり、ホコリをかぶっている。専業主婦は失業したも同然で、毎日何もしなくても済んでしまい、起きている間はオール「余暇」となったやに思われる。
 そうなれば「余裕しゃくしゃく」となってよさそうだが、そうはいかない。パートに出かけて「労働」し、稼いだ銭で衣服だ、装飾品だ、化粧品だ、などなと余計な出費をし、物品を溜め込んで、家具を買い足し、入れたり出したりせねばならぬ。そう簡単には衣類は捨てられないから置場所を新たに探したりもせねばならぬ。そして、年を重ねるにつれて、鏡の前で化粧品を塗りたくって長時間悪戦苦闘もせねばならぬ。もう少しパートを増やさなくっちゃいけないかと、あれこれ考えねばならなくもなる。
 さらに近年はスマホの登場で、主婦友達とSNSをやらねばならなくなった。そうしないと仲間外れになり、日に何度もメールをチェックし、返事も出さねばならない。文字ばっかりじゃバカにされるから、面倒でも写真を入れて“インスタバエ”という新種の蝿(ハエ=映え)も取(撮)ってこなければならない。
 どうやら、専業主婦も何かと小忙しくなり、「余裕のひととき」はなくなりつつあるのではなかろうか。

 専業主婦がこうだから、働く女性はもっと厳しくなっているにちがいない。
 男だけが幸いにも「余暇」を楽しめる、といったところだろうが、これも先に言ったように、労働時間が増える業種があるし、全ての労働の質が高くなってきており、小忙しさとともに労働の疲れも増大しているから、家に帰ったら、また、休日は、とにかく心身を休めたいという気分になり、「余裕のひととき」には縁遠くなり、「余暇」も減っていく、ということになろう。

 情報化機器も「心の余裕」を奪ってきている。最初はポケベルだ。これを持たされた社員はポケベルの奴隷にされたように感じた。それが携帯電話に変わり、外回りの社員は携帯電話にこき使われるようになり、今は車に取り付けられたGPSで行動管理もされる。
 友達との付き合いも、スマホにメールやらなんやらがしょっちゅう入ってきて、いちいち応答せねばならぬ。
 公私とも情報化機器に振り回されるのである。小生は、止むを得ず携帯電話を持っているが、必要最小限の機能でいいからとメールなしにしているが、いつしかショートメールが入るようになった。煩わしい、どうでもいいメールなんて送るな、といったところだ。もっとも、電話して、長々と挨拶せずに済むという点では便利だが、なんだか水くさい関係になりそうで、あまり好きにはなれないショートメールではある。

 かくして、1973年のシューマッハー理論は将来にも適用されるのではなかろうか。いつになったら「余暇」がたっぷり生まれ、「余裕のひととき」を堪能できるようになるのであろうか。これは望みようがないものになろそうだ。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
6品思い出す。うち1品は別のもの。2品はなし。3/7で40点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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