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10.3 生活様式はどう変わるか(その3) [人類の未来はどうなるか]

<一日一楽日記>(落ち込みから脱却・幸せ膨らむ ※1
 人類の未来がどうなるのか、その新たなテーマ「生活様式はどう変わるか」に関して第1回は「庭付き持ち家はいつまで続く」、第2回は「労働形態はテレワークに?」について書いた。今日はその第3回。

AI革命で仕事はがらりと変わる
 石器時代を生きた人は全員が採集狩猟民でオール一次産業の従事者であった。古代文明が誕生した頃、道具の飛躍的な技術革新が起こり、農耕牧畜の生産性が飛躍的に高まり、輸送能力もアップした。これを鉄器革命というが、第一次技術革命と言っていい。
 これによって、人はオール一次産業従事者から、一部の人たちが二次産業の製造業従事者、三次産業の商人そして公務員(役人と兵隊)になった。そして、一次産業は高度化し、採集狩猟から農耕牧畜となり、仕事の内容が大きく変わった。
 その当時、まだまだ一次産業従事者が圧倒的に多かったが、これはどれだけも変化することなく、近代を迎えた。そして、産業革命がおこった。第二次技術革命である。製造・運搬といったものが全て人力(牛馬の力を借りることはあっても)で行っていたものを、その何十倍もの力学的馬力を作り出す蒸気機関の発明と急速な普及である。これによって、労働生産性が一気に飛躍的に向上した。
 このとき、人力による手工業従事者が失業したかとなると、そうではない。製造業は人手不足となり、かなりの農耕牧畜業従事者が製造業に従事することとなった。大量に安価に製品が作りだされ、輸送コストも格段に小さくなり、需要が爆発的に膨大なものとなったからである。物質文明社会の到来である。
 産業構造も変化し、二次産業従事者が増えるとともに三次産業従事者も増え、卸小売業だけではなく、サービス業も大発展し、公務員も増えた。
 間もなくして蒸気機関が内燃機関に代わり、鉄道・道路網が整備され、第二次技術革命は着実に高度化されて成果を上げていく。つまり、さらなる労働生産性の向上であり、一次産業は機械化により、その従事者は大幅に減った。二次産業は物質文明の担い手であり、その後の生産量は何倍にも何十倍にもなったが、労働生産性の向上のほうが大きく、従事者を漸減させた。それに代わって、余剰労働力は三次産業に吸収され、今や三次産業が最も従事者数が大きくなったが、それでも労働力不足だ。これが先進国の実情である。

 さらなる労働生産性の向上は、コンピュータが担ってくれるようになった。
 50年ちょっと前までは、数値集計するのにまだまだ算盤を使っていた。子どもは算盤塾へ通い、2級の資格を取ると就職に有利という時代であり、学業のけっこうな部分を塾通いに充てたものである。小生とてそうであった。それが、50年前には一気に電卓が普及し、もう算盤の時代でなくなり、珠算2級の資格は無意味なものになった。広くコンピュータに人間が負けた第1号といっていいであろう。
 その後、コンピューターは順次性能を上げ、ロボットが製品を人間以上に間違いなく作る分野が広がってきた。でも、現在まだまだコンピューターは本領を発揮していない。
 今、学校教育では英語の授業が一昔前より強化されている。グローバル社会を迎え、日本人全員が英語を読み書きでき、しゃべられるようになる社会を作ろうとしている。なんともトンチンカンなことをやっている。うちのアパートには外国人がけっこう多いのであるが、日本に来て間がなく日本語が分からない人は、翻訳機を手に持って、ここに話しかけてくれと言う。すると、彼の国の言葉にすぐ翻訳されて、意思疎通できるのである。もっとも、今現在は分かりやすい日本語を短めの文章でしゃべらねばいかんが。
 これは、50年前に一気に出回り出した電卓に似ている。当時の電卓は今のものとはちょっと操作が違い、少しは使い方を覚えないと計算間違いした。
 翻訳機もそうで、年々使いやすいものに技術改良されていき、10年以内にビジネスの世界においても、あらゆる分野で機械翻訳が実用化されると考えられている。こうなると、学校教育の英語授業は何のためにやっているのか、ということになる。算盤塾が消滅したように、英語の授業も消滅する運命にあるではないか。英会話スクールとて当然に消滅する。来年に日本でオリンピックが開催されるかどうか怪しいが、諸外国から日本語の話せない人が大勢来たって、日常会話程度のことなら、今の翻訳機で十分間に合う。小生が今、インド人と話をしているように。

 時代がここまで進むと、もはや単なるコンピューターではなく、人工知能(AI)ということになり、これが普及すれば、定型的な仕事は全部AIに代替され、単純作業の業種は姿を消す。近い将来、必ず訪れるであろう第三次技術革命の到来である。
 これは、一次、二次、三次、どの産業にも全体に波及する。農業従事者は種蒔き、収穫作業から解放される。工場労働者の定型的な現場作業はなくなり、ほとんど無人化する。三次産業もその多くがAIロボットで代替される。スーパーのレジ係は今なくなりつつあるが、早々に無人化されるであろうし、単に宿泊するだけのビジネスホテルなんぞは受付と各室にパソコン端末が置かれるだけで従業員不在の無人の館と化す。
 となると、街は、AIに職を奪われた失業者であふれかえるのではないか、と心配になってくる。でも、決してそうならない。過去の歴史がそれを証明している。熟練した職人が技術革新で職を奪われ、当の本人は路頭に迷うことになっても、世の中、別の新鋭業界が伸びてきて人手を欲しがり、その職人の跡継ぎは別の教育を受けて新たなスキルを身に付け、他の業界に入っていくのである。
 AIが普及すれば経済は間違いなく発展し、経済発展すれば人手不足となるのが資本主義経済の姿である。これが資本主義のいい点であり、また、反面、怖いところである。

 さて、将来的にはどんな業種に労働者が増えるのであろうか。
 医者とて、もう始まっているが、患者を問診したり、血圧や体温を測ったり、検査したりしたデータをパソコンに打ち込めば、病名診断と処方する薬がたちどころに画面表示されるのであり、何も医学部を卒業して国家資格を取らなくても、誰にでも簡単にできる。また、定型的な簡単な手術なら、AIロボットが医者以上に上手に措置してくれるのも間近いであろう。難しい手術となれば、これは手が不器用な医者に任すより、建設業界からAIロボットに職を奪われた、手がめっぽう器用な熟達した大工さんを採用し、AIの指示を受けてノミの代わりにメスをふるわせた方が上手に手術できるだろう。医者も今のようなスキルしか持ち合わせていない人間は失職する。人口は増えないから患者も増えない。一人一人の病気もそうは増えない。つまり、医療対象が増えない状態で労働生産性が大きく高まるのだから、医療従事者数は大幅に減らさざるを得ないのである。
 高度科学技術文明の恩恵に浴する時代となると、既に今がそうだが、その昔の「読み書き算盤」程度の基礎教育ではスキル不足で社会人として使い物にならなくなった。よって、誰しも高等教育を受けるようになってきた。が、しかし、科学技術のスキルを身に付けても、その仕事は大半がAIロボットで代替されてしまい、職に就けない。
 将来は、AIには不可能な仕事、つまり、人間には、より創造的な仕事が求められるようになる。「自分で疑問をもって、自分自身に問いかけをしていき、そのなかから何か新しいものを生み出していく」ということになり、そこから付加価値の高い新規産業が大きく発展していく、ということになりそうである。
 また、科学技術はますます高度化するであろうから、最新と言われるものもすぐに陳腐化してしまって、習得したスキルの有効期間は今以上により短くなっていく。ここで求められるのは、臨機応変に技術の変化に対応できる基礎学力であり、その根底にあるのは幅広い教養であろう。これを義務教育から取り入れていかねばならぬ。英語の授業を止めて、それを教えねばいかんのである。まずは哲学だ。哲学を軽視するようになった昨今の日本である。哲学なくして、知的な創造性を呼び起こすことはできないであろう。
 ところで、全員が全員、高等教育を受けるにふさわしい学力的能力をもっているわけではなく、昔の寺子屋程度の学力でギブアップする人間も数多くいる。その代わり、彼らは別の能力を持ち備えているに違いない。それは人と人とのコミュニケーション技術であり、そのスキルが高い傾向にある。それが発揮される業種は今でもあり、今後それ(サービス業)が大幅に増大する。
 例えば高ランクの宿泊業・飲食業などにおけるホスピタリティつまり『おもてなし』、世界ホテル業界ではリッツ・カールトンが有名だが、これは日本人の最も得意とするところである。そして、また、これは人間にしかできない非常に質の高い仕事であり、事の性質上、マニュアルどおりに展開させられないから、往々にしてAIが出す理屈オンリーの判断の逆をいかねばならないことが多々あり、ここは人間力の独壇場となる。
 将来は、世界中から日本に、高度なホスピタリティを求めて観光客が訪れるのは間違いない。観光立国大国となりそうな日本である。もっとも、良き日本文化から湧き出してくる『おもてなし』であるが、悪しき欧米文化に染まりつつある日本ゆえ、将来は訪日客の期待を裏切ることになるかもしれないが。
 まあ、ここのところは「三つ子の魂百まで」であるからして、易々とは日本文化は消えず、当面は安泰であろうから心配は及ばぬことであろう。

 こうしたことを想像していると、日本人の未来像は次のようなものとなる。
 農業従事者は今以上に機械を扱うようになり、土いじりはせず、エアコンのかかった管理室でドローンやAIロボットの監視をしつつ、主な仕事は新製品のAI導入の検討と経営の安定化・向上に心血を注ぐことになる。かなりの頭脳労働となり、農業を後継する若者は理工系の基礎学力をうんと高めねばならない。
 製造業従事者はほんの一握りのエキスパートしか要らなくなり、知的能力が極端に高い、成績優秀者が研究に没頭するということになる。その皆が、アインシュタインやビル・ゲイツと同じように大学では落ちこぼれとなるも、そうした人物が大活躍するであろうから、大学教育も大幅な変革が求められる。
 三次産業従事者のうち、ほんの一握りのエキスパートは、製造業従事者と同様な道を歩む。これなくして三次産業の本質的な質的向上は望めないからだ。
 他の大多数は、読み書き算盤の基礎学力を身に着けたところで総合教養を学び、ホスピタリティを高めていかねばならない。その学び方は千差万別。高校・大学の講座で学べるのはほんの一部であり、逆にマイナスにもなることがあるから、ここは多くを実践のなかから学び取るしかない。基礎的な総合教養は高校までで十分に学べるから、大学へは行かず、最初は接客専門学校に通いながら、実践するなかで独学でつかみ取るといったことになろう。これは、かなりなハードワークだ。よって、簡単な仕事だからといってボケーッと毎日を過ごしていると、いつまで経っても低賃金の最下層の仕事(これもAIで大半が代替されているから少ない)に在り付けるのがせいぜいで、多くは失業することになる。
 こうして、どんな業種でも、それぞれに適した高度なスキルを持ち備えていないと食っていけなくなる、一面、恐ろしい社会になる。早め早めに自分に備わっているオンリーワン能力を見い出し、それをスキルアップしていかねばならないのだ。
 そこで、政府が打つ失業対策事業が重要なものとなろう。人間には各人それぞれ個性があり、その個性は自分ではなかなか掌握できない。家族や周りの者とてそうである。それを見い出してくれるのは第三者であり、そうしたエキスパート集団(失業対策事業機構)に頼るしかなかろう。それがうまく機能してくれるのを祈るのみである。

 こうして見てくると、将来の世の中は、今よりも忙しい毎日となる。勉強、勉強また勉強、それも何を勉強したらいいのかを自分で探し出さねばならないし、仕事は絶えずスキルアップしていかねばならなくなるし、これで安心と思ったとたん、その高度な仕事が新たなタイプのAIに奪われるかもしれない。
 経済学者のE.F.シューマッハーが1973年に「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。」と言ったが、将来はますますそうなっていくに違いない。やはり恐ろしい社会にどんどんなっていく。
 その昔、古代ギリシャが繁栄していた頃、アテネの人口のうち市民は5%で、奴隷が95%を占めていたという。警察官だって奴隷にさせていたから、市民は何も仕事をせずに遊んでおられ、男どもは暇に任せて頭脳遊びでもしようかと、哲学が大きく花開いた。哲学の延長線上に位置する自然科学の基礎も確固たるものが生まれた。生物学における生物分類もそうだし、宇宙物理学もそうだ。地球や惑星は太陽を回る球体であることを知り、地球・太陽間の距離や地球の大きさまで概ね正しくはじき出したのであるから、古代ギリシャの哲学者はすごい。もっとも、地球がかようにも高速で回っては、オリンポスの山に住む神々が目を回してしまうから困るとばかり、地動説は葬り去られてしまったが。
 日本の将来も、生産・サービスといった仕事は、その95%がAIで行ってくれるだろうから、人間様はアテネ市民と同様に遊んでおられると錯覚する者がおるようだ。だが、本質的に違う。アテネの奴隷は自分のことは全部自分で行い、奴隷の再生産(子どもを作る)も当然行い、奴隷が作り出した財をアテネ市民が単に一言命ずるだけで(多くは何も言わなくても)簡単に収奪できたから、市民は仕事は何もしなくてすんだのである。
 しかし、今、想定されているAIにそれだけの能力はない。
 遠い遠い将来、アテネの奴隷と同様に、AI自身でその人工知能装置を自己再生産するとともにそれを稼働させるエネルギー源をAIが自ら作り出し、かつ、人間様の痒い所に手が届くような『おもてなし』知能をAIが獲得すれば話は別だが、一足飛びにそこまで科学技術が発展することは決してなく、これは夢物語に終わる。
 シューマッハー理論は、資本主義経済が続くかぎり適用される性質のものである。世の中、便利になればなるほど忙しくなるのである。さーて、人間、どこまでこれに耐えられるであろうか。
(今日はここまで) 

<2日前の日記:夕食>(記憶力増強トレーニング ※2
6品思い出す。うち2品は別のもの。1品はなし。他に1品。3/8で40点

※1 2012.9.2別立てブログ記事で書きましたが、毎日何か楽しい出来事が少なくとも1つはあったはずであり、それを書き綴っていけば落ち込みから脱却できるとのことで、小生も“一日一楽”日記を付け始めました。
 また、このブログの2015.3.3の記事で紹介しました、ひすいこたろう著「ものの見方検定」に書かれている「小さな幸せに気づくレッスン」で次のように述べられています。
 「わたしは今日幸せでした。なぜならば…」、これの続きを3つ考えてから寝てください。寝る前に幸せを味わって眠ると、不思議と、朝起きたときの表情が違うんです。これも続けるとよくわかるのでぜひお試しくださいね。
 小生も早速これを始め、うち1つを記事にしたところです。
※2 2014.6.3ブログ記事「 100歳までボケない101の方法 」で書きましたが、その中で衝撃を受けたのが「2日前の日記を付けよう」で、次のように書かれています。
 記憶力を維持し、さらには高めることができ、ボケ防止に役立つ効果が大きいから、ぜひやってみてください。例えば2日前に食べたものを思い出すのはどうでしょう。前日のことならかなり鮮明に覚えていると思いますが、2日前となると途端にあやしくなりませんか。
 よって、小生も早速2日前の日記を付け始めたところです。
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